母を訪ねて三千里(その2)
ホテルを出ると街はもう熱気に包まれていた。
すでに気温は30度ある。全家便利商店(ファミマ)でお茶を買ってカバンに詰め込み台北駅に向かった。
淡水行きの地下鉄に乗り込む前に両替である。両替は郵便局がいい。何がいいかというと安心だし、手数料を取られないのである。ただ、当たりが悪かっただけなのかも知れないが係の女の子はゆっくりゆっくり行動する。急いでないからいいようなものの、「大丈夫ですか?」と心配になるほどの日本とは違うスローな換金業務であった。この台湾元もカバンに突っ込みまた歩いた。
中山駅まで歩いてそこから淡水行きの地下鉄に乗った。
まったく土地勘はないが、どこに行っても東西南北だけをたえず頭に入れているから迷子になったことはない。
絢絢のいる老人ホームまで淡水駅から15キロほど、貸自転車で1時間ほどであろうから、、とも考えたが、慣れぬ暑さのため今回は見送った。
昼時を過ぎた午後に絢絢のいる淡水駅に着いた。
まずは昼メシ、駅に近いそば屋に入った。
昼を過ぎてもどの店も空いている席が無い、見つけたこぎれいな「裕元牛肉麺」店に入る。中学時代にいた同じ名前の男の馬のような長い顔を思い出しながら、温かい肉無し汁無しそばをすすった。
なんだか、どの店に入っても愛想が良くない。日本語しかしゃべらない声の大きな男はめんどくさいのかも知れない。でもこの滞在期間中口にしたもので美味くないと思ったものは無かった。
淡水駅からはタクシーに乗った。個人タクシーの初老の運転手さんは自分のスマホにある日本の演歌を流してくれた。親切は理解したがなんとなく私の旅気分は壊れてしまった。2500円ほどを支払いホームで降りた。大きな老人ホームには門に守衛室があり、そこで予約の確認をしないと通してもらえないようになっていた。タクシーの運転手は迎えに来たそうであったが、断り帰ってもらった。
玄関に着くと、移動八百屋が来ていて、スイカを囲んでおばさん達の会話の花が咲いていた。
トラックの果物をのぞき見ていると「ひでき〜」と聞き慣れた声がやって来た。絢絢である。それまで見たこともなかった手押し車とともに現れた。
間違いなく時間は経っていたのである。
大阪で6年前に会った時にはまだ自分の足だけでしっかり歩いていたのだ。
自分の白くなった髪を思いつつ絢絢の肩を抱き、その生を確認した。
時間が経つのは早い。いつも書く私のハガキで私の近況を把握する絢絢と何を話をしたのであろう。昔話しばかりだったと思う。気がつけば絢絢の夕食前の時間、私の帰る時間に近づいていた。最後に絢絢に聞いてみた。「どうして結婚しなかったの?」と。
「縁が無かったのよ、こんなに気がきくのにね」と自分で言った。
「一緒になりたい人はいなかったの?」とも聞いてみた。
それには黙ったまま、また今度会った時にね。と言葉を切った。
大きな歴史の流れのなか、家を家族を支えるために生涯を送って来た絢絢に別れを告げた。
淡水駅まで行くホームのバスに乗った。絢絢には職員が付き添ってくれていつまでも私に手を振り見送ってくれた。
淡水駅の売店で肉まんを一つ買い、その場で食べた。
思った以上に遅くなり地下鉄に乗った。始発駅の淡水からは必ず座れる。樹脂製の硬いシートに沈むように再び寝入った。
一度ホテルに戻ったがなんだか頭が疲れていた。繁華街に出てみたがどうも気乗りはせず、ホテル近くに戻って普通の食堂を探した。
8時は回っていただろう。小綺麗な明るい食堂を見つけた。
家族連れやアベック、団体とたくさんの客の中に紛れ込んだら落ち着いた。とにかく皆よくしゃべる。単独客の男は電話で話しながら魯肉飯を食べていた。そして、誰もアルコールを口にしていない。
そんななかで私は一人、台湾ビールを飲みながら旅情に浸ったのである。
そして、である。
実は絢絢と移動式八百屋をのぞいていた時に「ひでき、食べたいのあったら買ってあげるよ」と、小学生の私に言うように絢絢に言われたのであった。「お腹一杯になったからいいよ」と言いながら私の目はある果物を探していたのである。
レンブ(蓮霧)である。高校生で一人でやって来た初日に絢絢に食べさせてもらい「うまい」と言ったらそれから毎日ビニール袋に入ったレンブを水分補給だと言って、手にぶら下げさせられたのである。
私の思い出のレンブなのである。
リンゴのような食感とリンゴに似た爽やかな味のレンブを実は絢絢にねだりたかったのである。
でも、無かったのである。
そして、晩メシを済ませてホテルに戻る途中にまたもトラックの移動式八百屋に出くわしたのである。しまいかけの八百屋の荷台に一盛りのレンブが残っていた。それを追う私の目を店のおばちゃんは目敏く見ていた。さっとカゴを私の目の前に突き出した指を1本立てる。百元だと言うのだ。ポケットから小銭をつまみ出しレンブを買って帰った。
ホテルで大ぶりのレンブを齧った。
食感と爽やかな甘みは私を半世紀近く前の記憶に誘った。
でもその時、松山空港に遅い時間に着き、出迎えに来てくれた絢絢の若い顔はもうカラーではなかった。
レンブを齧りながら時間の誰にでも平等な残酷さをしみじみと感じたのであった。
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