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家で過ごす時間

家にいる時間が嫌いじゃない。家で過ごす時間が極端に短い仕事を続けてきたから死ぬまでにバランスが取れたりするのかと思ったりもするが、考えれば子どもの頃から家にいるのが嫌いじゃなかった。両親は共稼ぎで日中家にいることはなかった。同じ小学校に通っていた障害を持つ兄が家にいたが、お互いのテリトリーを侵害し合うことは無く平穏な時間が流れていた。兄は体調を崩して休むことが少なくなかった。私は健康優良児で小中学校を一日も休むことは無かった。でも、その頃密かに憧れていたのは平日に学校を休み一人きりで当時住んでいたアパートで時間を過ごすことであった。こんな寒さが絶頂に達する頃の愛知県三河地方の冬空に雲を見つけることは難しい。南面のカーテンの無いコンクリートの部屋はいつも温室のように温かかった。そこで一人ぽつねんとただ居たかったのである。

正月二日の朝、当たり前のように自宅で過ごし、年末から自宅で飲み食いしそんなことをつらつらと考えている。長く営業を生業とし、飲み屋で接客もしてきたが、ここまで生きてきて、あんがい人間は好きではなく、人間好きな振りをして生きてきたんじゃなかったのかと思ったのである。年末にスマホが謎の急死を遂げた。復旧を試みたが叶わず、やって来る新型を待つ二日間を以前のガラケー時代のように電話通話とメールだけの時間を過ごした。その間なんだか本当に一人になれたような気がして少し嬉しかったのである。

便利がすべてではない。年賀状のやり取りが当り前だったその時代、普段連絡など取ることのない相手に無理やりこちらの生存を伝え、律儀な相手は生存を伝え返してくれた。だから何なんだって話になるのであるが、SNSの普及で年賀状が廃れていくことを強く言う人間がいるが、私は無くなっていくことで気が付くなにかもあるからそれでいいと思うし、どうしようもないじゃないかと思うのである。郵便料金が上がり年賀はがきも値上がりしこんなご時世に売り上げが落ちるのは当たり前であるし、日本郵政もご多分に漏れない人手不足、配達員の仕事量が減っていいんじゃないかと思ったりもする。正月くらいゆっくりさせてやっていいと思う。

てなことを考えていたら、海外にもグリーティングカードはあるが、日本のように国がその元締めを行ない、国民に年賀状を広く知らしめてきたところはあるのであろうか気になってきた。
家でぼんやり過ごす時間はどうでもいいようなことをいつも考えている。深酒が少なくなったからか、歳のせいなのか、早い時間に目が覚めてここでの文章はいつも早い朝に書いている。
note で知った何人かの方の愛犬、愛猫の具合の悪さを目にして気になっている。口をきくことの出来ない彼等、彼女等が気になり、優しい飼い主の皆さんが気になる。愛知に一人残している兄の体調がすぐれないが、それよりも犬、猫たちのほうが気になるのである。

とりとめもなく次々浮かんでくるよしなしごとをそこはかとなく書き綴れば、あやしうこそものぐるほしくなってくるのである。

寒い部屋でパソコンに向かいながら、枯れた心の時代のあの時間の無機質の白く塗られたコンクリートのアパートの何もなかったただただ温かかった部屋を思い出すのである。


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