茶色の弁当
昨晩、台湾の母、黄絢絢さんから電話があった。私の書いたハガキが手元につくといつも老人ホームの若い女性職員の手を借りてLineで電話をくれる。
今月末に絢絢は94歳の年齢を迎える。絢絢たちも自分の意思ではない大きな時代の流れに木の葉のように翻弄され生きて来た人である。五人兄弟姉妹の中、絢絢一人がお母さんの面倒を看てきた。そして今を一人で生きている。
二年前他界した母ハルヱの事を絢絢はひできがいるから幸せだといつも言ってくれた。
絢絢は子が幸せでなければ親は幸せではない、ということに気がついてないのかも知れない、そんなふうに思う時期もあった。絢絢に本心を一度も話したことが無かったから。でもいつも来るタイミングのよい電話は全てを見通しているようであった。
10年前のこんな時期である。温くなってきた冬を追いやり肌寒い春が入れ替わってやって来るこんな時期に、母は終の棲家が見つかるまでの仮の入所のために自宅を旅立った。
アルツハイマーの世界を生きる母は思うに任せぬ毎日を不安と苛立ちの中で生きていたに違いない。その朝も用意した食事には手を付けることはなく、車に乗ることも拒んだ。二度と帰る事は無かろうと分かっていた私は最後に自宅で何かを母に食べさせたかった。仕方なく急いで弁当を作って母と二人で車に乗った。途中、スーパーの駐車場で弁当を開いたが、それにも母は手を付けなかった。冷たい雨が降っていた。
あり合わせと残り物で作った弁当は写真のような茶色の弁当だったように記憶する。
いつも母が私と兄に作ってくれた弁当のような。
その時が母との本当の別れだったような気がする。姥捨て山に母を背負い捨てに行く子供のような心持ちであった。まさか自分にこんな日が来るとは思わなかった。
他人に自分の親や子を託す時にはきっと誰もが同じような思いをするのだろうが、父は死にかけ、母を他人に預け、兄の預け先を探しに東奔西走する作業がまさか一度に重なるとは思わなかったのである。
しかしながら人間は強い、こんなことにも慣れてくるのである。絢絢はその頃もずっと連絡をくれた。そして、いつも変わらぬ私への叱咤であった。その叱咤に支えられてきた。
いつか時期が来たら、絢絢に会いに行こう。そして絢絢のいる老人ホームの厨房を借りて茶色の料理を作って食べさせてやろう。これまでの恩返しと台湾の母への親孝行だ。
だから今、世の平安を祈り、台湾の平安を心から祈る。