夏の終わりに思い出す
昨日は涼しい一日だった。
ツクツクボウシが鳴き、雲を刷毛で掃いたような空を見上げながら朝、合気道の稽古に向かった。
まだ日本には四季が残り、移ろう四季の織り成す秋は私たちの心に何かを
訴える。
母が死ぬまで毎休みは、愛知県豊川市にいる母と田原市にいる兄に会いに行っていた。
深夜に出発、長距離運転のハンドルを握った。
奈良県の山を越え、三重県の海沿いを大型車両に挟まれて名阪道を東に向かった。
朝早くに母のグループホームへ到着。
母はいつも自分の食事の前でテーブルに頭をつけて眠っていた。
食べなくとも必ず三食を他の皆さんと共に食卓につかせてくれるこのグループホームのやり方に共感していた。
母の世話をしていただく方は大変だったと思うが、あのメリハリが母の脳にもいい刺激を与えていたんだと思った。
低空飛行を続けている母は経口栄養剤で生を保ち続けていた。
人間に必要な栄養がほぼ含まれていると聞いた。
飲みやすい味で仕上げられており、それだけで生き延びている高齢の方が日本中にかなりの数いると聞いた。
母には悪いがいつもそこそこで切上げさせてもらって兄のもとへ向かった。
時々、兄の通院に付き合うこともあった。
そんな時は施設の看護師さんとともに田原市にある総合病院へ行った。
自分で落としたものを拾おうとして時々、車椅子から転げ落ち、骨折することがあった。
兄の年齢にプラス20歳で考えたらいいですよと医師に告げられた。
永年にわたる服薬と車椅子の生活での運動不足が原因である。
しかし、まだまだ元気に生きていかねばならぬ兄とはこれからのリハビリを約束していつも別れた。
帰りにいつも田原城跡にある博物館の駐車場で一人休憩した。
この時期の桜の木陰はひんやりした空気に包まれていた。
大阪では聞かないミンミン蝉とツクツクボウシの大合唱である。
平日の昼下がり、人はいなく落ち着く不思議な場所であった。
田原藩士『渡辺崋山』は画家で思想家でもあった。
こんな場所で日本の行く先を憂いていたのだろう。
物を考えるのに向いた場所である。
田原市は太平洋と三河湾に挟まれて温暖で裕福な土地である。
そして、豊橋に隣接しているので新幹線に乗れば東京大阪はともに一時間半圏内の至便さである。
仕事によったら、こんないい意味での適当な田舎で生活するのも頭と心に良さそうだな、とその頃思うようになっていた。
そのまま仮眠することもあった。
夏の終わりの蝉しぐれの合唱のなか、しばし浮世の辛苦を忘れ、心地よい空気は私にまた生きて行く力を与えてくれた。