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台湾の母

昼下がり、時間を見計らったように私がボーっとしているタイミングに台湾の母黄絢絢コウケンケンさんからlineで電話がきた。母の親友である絢絢ケンケン、今年で94歳になる。いつも私の身を案じて電話をくれる。

日本の統治下で日本語の教育を受けた絢絢はいまだに日本語の読み書きは達者である。ひょっとしたら私よりも。日本を敬愛してやまない絢絢であるが、日本の教育を受けたがために公用語である台湾華語が出来ないと私が子どもの頃こぼしていたのを憶えている。台湾華語も北京語も中途半端だと言う。
そして看護師を定年退職後、夜学で勉強していると聞いていた。でも、そのあと中途半端で終わらせてしまったと聞いた。お母さまの看護・介護に時間が取られるようになったのだ。

今絢絢がいる淡水の大きな大きな老人ホームはお母さまが亡くなるまでいた場所である。そこに引き続いて絢絢はいる。付きっ切りで介護していたのだ。かなり長くそこにいることになるのだがそこの若い職員さんたちとは100%言葉で気持ちが通じないと言っていた。同国民でありながら言葉の壁があるのである。時代を理由に済ますことのできない壁がある。中国大陸から移り住んだ絢絢のご両親、そして絢絢たちが使ってきた台湾語は遺物となりつつあるのだろう。

男二人、女二人の四人兄弟姉妹のお母さんと絢絢が最後まで生きた。
大学進学を全く考えなかった私は高校卒業前にわがままを言い、この絢絢を頼って渡台し自分の人生を決めようとしていた。しばらく一人で台北に滞在し四家族に𠮟られ、諭され帰国したのだ。

その時からずっと私が心配だったと絢絢に言われたことがある。
血の繋がらぬ不徳の息子なのである。
絢絢はお母さまの介護もあって生涯独身を通した。

台湾で一番かわいがっている長兄の息子、絢絢の甥っ子の娘が東京の大学に二年前に入学した。東京に収益用マンションを1棟持っている。そして、最近一家そろって日本国へ帰化したと言う。
私の不勉強さで恥ずかしさばかりがあるが、台湾の皆さんがそこまで深刻に自国のことを心配していることに思いは及ばなかった。
絢絢と話しても「あの子らの人生だから」と言う。まだ大昔ではない過去に大陸から台湾に渡って来た歴史は私たち生粋の島国民族日本人の思う自国への考え方とは違うのであろう。
私は自分の住むこの日本のことを真剣に考えたことが無かったように思う。
『自国を捨てる』なんてことを生まれてこの方、一瞬たりとも考えたことが無かった事を幸せと思うべきなのか不幸せに思うべきなのか考えてしまった。
このコロナ禍が落ち着いたら今度こそ絢絢の顔を見に行かねばならないと思っている次第である。

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