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人に伝える

人に伝えることは難しい。

仕事でも、合気道でも。

合気道の稽古に何が必要かと時々聞かれるが、合気道には身体能力とかセンスではなく素直さが必要だと答えている。
本来、素直にならなければ人に教えを乞うことは出来ないであろう。
しかし、大人は皆目的が違うためなのか、なかなかそうはいかない。
本人は素直なつもりのようだが長く生きてきた経験が邪魔するのかもしれない。
考えなくてもよい事を考えるのがよくない。
邪心が邪魔する。
私もそうだったと思うが、どこかで自身で気付くしかない。

その点子供は素直だ、無邪気でもある。
無垢なスポンジのようである。
だから、逆に、教える私がしっかりしなければならない。
子供達は鏡である。
私の間違いをそのまま真似る。
自分の出来なさに気付かせてくれる。

素直な子ども達は鉛筆やシャープペンシルのようだ。
鉛筆やシャープペンシルは筆圧や書き方で文字の濃さや太さが変わる。
書き手である私がいつも同じ濃さで同じ太さの線が引けるように努力しなけらばならないと気付かせてくれる鏡である。
初心者、子ども達が目下、私の一番の先生かも知れない。

そもそも、口頭で合気道の説明をすること自体が難しい。
聞くならば、しばらく稽古をしてみて欲しいと思うのだが、なかなか私が思うようにはいかない。

技のこと、技術に関して言うならばある程度武道、格闘技、ケンカをしてきた人間にでなければ言葉での説明は難しい。
初心者の方に左右必ず繰り返し稽古する武道、スポーツは少ないから体にいいかも知れませんよとは説明する。
技の基本の動きを、私たちが意識することなく箸を手にして食事をするように動けるよう繰り返し繰り返し行うこと、とも説明する。

しかし、言葉での説明は難しい。

学生時代に通った新宿にある本部道場には当時から海外からも多くの方が稽古に来ていた。
時間にもお金にも余裕のある方が多かった。
そんな人たちと片言の英語で話しする中に『moving zen』という言葉が出てきた。
彼らの中にもただ人を倒すだけではなく、合気道や本来の武道の中にある『spiritual』なものを求めている人間がいた。
私もこれが無ければ40年も合気道を続けてこなかったと思う。

すべては『よき師』との出会いだったかも知れない。
今の私の年齢で亡くなってしまった市橋紀彦先生の影響は大きい。
今の私に出来ることは少しでも市橋先生に近づくことである。
技では到底無理である。
少しでも市橋先生が私たち学生に置いていってくれた『合気道』の魂を私は人に伝えたいと思っている。

生活あっての合気道である。
畳の上での稽古ばかりが合気道ではない。
人生すべてを合気道と考えこれからも稽古を続ける。



毎年道明寺天満宮で行われる奉納演武での一昨年前の写真
家内も私と一緒に稽古をしています。

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