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かす汁の夜に『男おいどん』

いつも冬の間、酒粕を切らすことなく冷蔵庫に置いている。
粕汁を作る、もしくは気が向けば味噌汁に粕を少し加えるためである。
粕汁には塩鮭か豚肉があれば嬉しいが、根菜類だけあれば取り立てて特別な材料はいらない。
それほど健康ばかりに気を取られているわけではないのだが、健康的な一品だと思っている。
スープジャーに入れておにぎりと共に持ち歩くこともあった。
翌日、煮詰まった方が旨味は増してくる。
しかし、思い起こせば、子どもの頃に粕汁を食べた記憶が無い。

父の故郷は長野県飯田市の愛知県寄りの外れの山の中である。
時々日曜日に父の車に同乗してついて行った。
行けば何もやる事が無く、一時間もしないうちに退屈してしまうような田舎だった。
そして帰りに愛知県北設楽郡きたしたらぐん設楽町したらちょうというこれまた田舎の酒蔵に寄って帰った。
そこで父は『蓬莱泉ほうらいせん』という酒を量り売りで買い、ついでに酒粕を買った。
父は粕をストーブの上で焼いて酒のアテにしていた。
酒粕で酒を飲むその姿をなんとも不思議な気持ちで父を見ていた。
その頃はそれを見てもなんの感動もなく口にすることは無かった。

年齢とともに食の好みは変わるということだろうか。
気がつけば自分で粕を買うようになっていた。
『おふくろの味』じゃない、私の味の粕汁である。
コンニャクのアク抜きをして、豚肉とごぼうを炒めてグツグツ煮て出汁の素と味噌か塩、そして粕を溶いてしばらく煮たら出来上がる。
この間、いつもラジオを聞く。
父はいつもNHK第一放送を流しながら、晩年を自分の作業小屋で時間を過ごした。
母は『ラジオ深夜便』のファンであった。
二人とともにしたことのない粕汁を二人の好きだったラジオに耳を傾けながら一人作る。

そんな時間が好きなのである。
なによりもそんな時間に幸せを感じるのである。
学生時代、何もない黴臭い四畳半の部屋に一人寝転がった時に「ああここが俺の城なんだ」と思い、自由と幸せを感じた。
そんな時間に近いのである。

食う、寝る、出す、人間が人間として生きる大きなこの三つを当たり前に私たちは行っている。
そんな当たり前をあらためて考え目にすると妙に感動めいたものがある。
作った粕汁を口にしながら深夜酒を飲んだ。
めったに無いことであった。

松本零士の訃報をしり、私にとっての松本零士、「男おいどん」を思い出したのである。
主人公の大山昇太を通して四畳半の下宿生活を夢想し、ラーメンライスを知り、サルマタケなるキノコの味を想像した。
時々登場する美人女性にいつも恋焦がれながら最後に振られてしまうのにいつも『フーテンの寅さん』を彷彿させられた。
私たちの営みでもある主人公大山の食う、寝る、出すを見ているだけでなぜか安心したものである。
私にとっては昭和の独身男の青春そのものであった。
高校時代に読んだ「男おいどん」、大山は金もないのに汚い四畳半で仲間と酒を飲む場面もあったように記憶する。

そんなことを思い出して酒を飲んだ。
「男おいどん」は歴史にはなって欲しくない、今なお日本のどこかで大山昇太は生き続けていて欲しい。
松本零士にはただただ感謝である。
安らかにお好きだった天に向かってください。
でも、おいどん、大山昇太は置いていってくださいね。

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