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鰻をたべた話

昨日の休みに打ち合わせがてら久しぶりに鰻を食べた。
大阪心斎橋のまあまあ有名な鰻屋である。

流行り病はどこに行ってしまったのか、我々に油断を誘う静けさのようにも思われる。
町は活気を取り戻しつつあり、何事もなかったかのように人々は活動を始めている。
以前と違うのは顔半分を覆い隠すマスクである。
二つの目玉だけがギョロギョロと動き、表情は読み取りづらく、地下鉄の中ではそのギョロギョロ目玉はスマホの画面を追い続け、もちろん会話など無い。

異星人も異界からの使者も今ならば入り込み放題の市中である。
そんな中、危険を冒してまで食べなければならない鰻なのであろうか。

実は私は鰻がそれほど好きではない。
以前ここで書いたことがあるが、たぶん一般男性が生涯に摂食するであろう鰻の許容量を超えるだけの鰻を食べてしまっているのである。

私の郷里である愛知県東三河は浜名湖に隣接している。
小学校の同級生ハルチン宅の生業は養鰻、浜名湖での鰻の養殖販売であった。
月に何度か母ハルヱに「ハルチンとこ行って来て」と言われ千円札を握らされ使いに出された。
「おばちゃん、」と入って行けばハルチンのお母さんは鰻に用事なんだとすぐわかる。
土間に何層にも積み上げられた黒色のカゴから太い鰻を一本つかみ出し、開いて串に打ってくれた。

それを持って帰る。
それをどうするかというと、、
母が
焼く
のである。
たれも母が作っていた。
それなりの味だった。

実は、地元のスーパーには串に打たれた生の鰻も並んでいた。
そんな日本の常識と外れた世界に住んでいた。

だから、大学生となり東京に行くまで鰻は美味くないモノと思っていたのである。
合気道部の先輩に新宿ションベン横丁の入り口あたりのとんでもなく安い鰻屋で一番安い鰻をご馳走になり、息を止めて箸をつけた鰻丼の美味さにたまげたのである。

しかし、しかしである。
私には量だけはとうに生涯の許容量を身に付けてしまっていたのである。
だからあまり自身から鰻を欲することは無いのである。

贅沢を言わせてもらえば白焼きがいい。
両親が生前の頃だ、まだ父は何とか自分のことをやっていた頃、週末に両親と兄貴の介護・看病に帰ると時々父が白焼きを買ってきてくれていた。
包みが冷蔵庫にあり、遅い時間に着く私に父が「冷蔵庫にあるから食べて寝ろ」と一言残して寝室に向かった。
オーブントースターで温め、わさび醤油で食べた。
臭みの無い上品な白身は脂がほどよくのり、わさび醤油はその甘みを引き立てた。
もちろん酒もだ。
『蓬莱泉』を置いてくれていた。
白焼きにはやっぱり日本酒だと思う。
仕事の疲れを忘れ、次の日に備えて、ひと時の至福の時間を鰻の白焼きは私にくれた。

私が鰻がそれほど得意でないのは許容量の問題ばかりでなく、案外こんな家族の介護・看病の思い出がセットになっているからかもしれない。


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