稽古の帰りに飲んだ酒
いつもじゃないが、稽古の帰りに一人で酒を飲んで帰る時がある。
ゼネコン営業マン時代、帰りに飲んだ酒は飲まなきゃ帰れない酒だった。
ゼネコンの営業には定石は無く、毎回足らぬ頭を使い、心をすり減らし、ついでに靴底もすり減らしていつもクタクタだった。
皆は自身に「お疲れさん」だなんてことを言うが、私に限っては全くそんなことは無かった。
ゴールに着けぬ自身に腹を立て、きっとそれはあいつのせいだと、いつも誰かに矛先を向けて酒の神様に叱られそうなそんな飲み方しか出来なかった。
酒は頭と心を整理するため、飲み過ぎれば次の日辛いのは分かっていたが、
毎晩浴びるように飲んで帰った。
でも、今はもうそんなことは無い。
長く生きることで鈍化してしまったのか、毎日の新鮮さを失った同じような出会いにため息をつく。長生きで長じた力のせいであろうか、起きたことの行き着く先はいつも想像通りに進んでしまう。若い頃の緊張感や若い頃のワクワク感が背で感じる冷や水のようにやって来ることはもう無いのである。
酒は過去を懐かしみ、生きて来た軌跡の正の部分ばかりを辿るべきではないであろう。酒場は過去の負である失敗や過ちをそこで思い出して昇華、浄化させる場であってもよいように思う。同じ過ちを繰り返すことの無いそんな心をはぐくむ場所であって欲しいのである。
日々考え酒を飲む、稽古の帰りにも酒を飲む。合気道の技への考えも進化して、誰もが理屈通り動けば出来る合気道を考える。合気道は力ではないと力が無くなってきて分かり、合気道は決して人を傷つけるためにあるんじゃないとこの歳になってわかる。全ては一通りの経験を積んで辿りつく、合気道も人生も同じじゃないかと気がつくのである。
考えるために酒を飲む。ひとり飲むときはいつもそうである。もう長くはないであろう先を思いつつ酒を飲む。ひとり飲む酒も良いものである。決して多くは飲み過ぎずビール一杯、酒二合、アテはできれば旬のもの、酔わぬ程度に酒を飲み揺られて帰る電車が良い。生きるを感じて酔う酒はきっと私を誘ってくれる。まだある明日へと誘ってくれる。