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コインロッカー係の憂鬱

女の誕生日がやって来る。
男には誕生日にうとい理由があった。

女と子どものいる世界には時間は存在しない。でも女は自分の誕生日を覚えているに違いないと男は思っていた。
向こうの世界に行って男は女の誕生日を祝ってやりたいと思うが、行ってまたいつ別れてしまうのかおびえながら一緒に居たいとは思わなかったのだ。

望んで今ある生ではないが、再び今のこの世に帰るために女と子どものもとに行くことが躊躇ためらわれた。

男は記憶の残る子どもの頃からずっと憧れていた普通の生活を、女とともに果たせた幸せな短い時間を反芻はんすうしながら生きていたのだ。
女の死でそれが終わるのは仕方ないことと頭も心も整理できていたのである。

男の誕生日にうとい理由は男の出自しゅつじにあった。

男の育ての母は養母であった。
温かな心を持つ優しい養母であった。
認知症になったその後も、男はそれまでの恩を返すかのように養母に尽くしそばに居続けた。
男は再び天涯孤独になることが怖くてならなかったのである。

男は本当の母親を知らない。
この世に出てすぐに吸った空気は冷たい金属の箱の中だった。
男はコインロッカーに母親から捨てられたのである。
そして、運よくコインロッカー係に発見され、養母のもとで育てられたのである。

男をコインロッカー係に引き込んだ鉄道会社のOBが感じたのは男の特殊な力ではなく、その身体に染みついたコインロッカーの匂いだったのだろう。

女と子どもが今いる世界は悪い場所じゃない。
いる人間は皆幸せなようだ。
ひょっとしたら天国と呼ばれている場所なのかも知れない。
ただ、そこに行く者すべてが永遠にそこにいるわけにはいかないのだ。
自分の順番が来れば出て行かなければならない、そんな世界である。

死に恐れなど微塵みじんもない男ではあるが、またこの世に生まれ出なければならぬ、これほど男をおびえさせるものは無かったのである。
それを自ら知ったうえでそこで三人で生活する。
そんな苦行は想像すらしたくもなかったのである。

男は悩んでいた。
女に「おめでとう」と言ったあとに続ける言葉が見つからず苦しみ悩んでいた。



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