あかぎれの手で注いだ酒
人に注いだり注がれたりと酒飲みのいるカウンターは忙しい。私は人に酒を注ぐのも人から注がれるのも好きじゃない。大学時代の合気道部はとても厳しかった。酒の注ぎ方、ビールの注ぎ方を徹底的に叩き込まれた。先輩、OBに対して、師範や部長に対して粗相はあるまじきことで、学生の合気道部と言えども小さな社会を形作っていたのであった。だからゼネコンに入って営業マンとして接待をしていて学生時代の厳しい躾のおかげで困ることは何も無かった。その点だけは優秀な社員として評価されていたに違いない。
齢を重ねるうちに注がれる機会の方が多くなる。設計事務所に転職すると、おかしな話なんだが建設業界では設計が世界の天井にあり、その下にゼネコン、サブコン、協力業者と階層ができ上っている。そうすると飲みに行ってもなおさら注がれる機会が多くなった。なるべくそんな席は外させてもらったが、どうしようもない場合には仕方がないのでコップで酒を受けるようにしていた。手酌でさせてくれと言っても、向こうは立場上そうもいかない。酒を受ける回数を減らすためにコップで酒を飲んだのである。
じつは一人で飲む時には店が嫌がらなければいつも燗酒のコップ酒である。気楽に飲みたいそんな夜はコップでちびちびやるのである。飲んだ量も分かるからちょうどよいとも思っている。
寒い寒いこんな夜は熱すぎるくらいの燗でちょうどよい、魚は炙ったイカでなくともよい。無口なおばちゃんが炊いてくれたオカラか切干大根くらいがちょうどよい。小鉢を箸でつっ突きながら私の夜は更けていくのである。
引き算をすればもう46年も前のことである。高校を卒業して豊橋市にある魚市場で2年間アルバイトで雇ってもらったことがある。大学に進学する同級生の多いなか、私は行く先の定まらぬ進学に疑問をずっと持っていた。
「好きなことをやればいい」といつも言っていた母の心は分かっていた。母の気の迷いで無理な自然分娩を行なって障害を背負わせてしまった兄とともに生きてきた私に普通の学生生活を送らせてやりたかったのである。でも、先を考えることはできず、働かなければならないと思う子どもであり、まだ高卒で働くことが少数派でもない時代だったと思う。今で言う大企業の多くは高卒の採用を行なっていた時代だった。
知り合いの伝手(つて)でまあまあ大きな仲買に雇ってもらうことになった。小僧は私一人だけ、30代の少林寺拳法の師範木村さん、40代の与論島出身の琉球拳法の使い手タケさん、経営者の大将が兄弟で二人いた。あとは奥さん、おばちゃん達、そんなほぼほぼ家族経営の仲買だった。
株式会社でやっている大きな仲買の次に大きな店だった。競り落とす魚の数は半端なく多くそれを鉄の台車でガラガラと集め、注文してくれた魚屋、仕出し屋、小料理屋、寿司屋、割烹、スーパーが持って帰れるように準備するのが仕事だった。
なかでもマグロの競り落としの後が大変だった。冷凍マグロをチェーンソーで専属の親父に縦に四つに割ってもらわなければならない。背が二つ腹が二つ、そのあとその背びれや背骨の余分をナタで削り落とすのである。
そのチェーンソー台に冷凍マグロを運ぶのが競争だったのである。株式会社のデカい仲買には私より年上の小僧が4,5人いた。手鉤を冷凍マグロの口に引っかけ、ずるずると引っ張っていくのである。1本が40、50キロ、重いものでは100キロ以上のもあった。チェーンソー台は2台、1本引くのに1,2分はかかるだろうか、マグロが100本も並べば相応の時間がかかる。どのお客さんも1分でも早く最後に競り落とされたマグロを積んで、帰って仕込みにかかりたい。だから毎朝戦争だった。多勢に無勢、一人の私は初めは1本の手鉤で往復したが、それを2本に増やし、すると敵は私のマネをする。最後は両手に2本ずつ、最高で4本のマグロをずるずる引きずるようになった。
そんな仕事は面白かったが、冬の水仕事は楽ではなかった。
1年と半年、考えて進学を決めた。稼いだ金を持って東京に出て行くことに決めたのである。親父二人は残念と言いながらも喜んでくれた。子を持つ二人はいつも私を息子のように可愛がってくれていた。おばちゃん達も喜んでくれた。もちろん木村さんもタケさんもである。
そして、タケさんに誘われたのである。豊橋市魚町に住むタケさんのアパートの近くの小料理屋に誘われたのである。初めて入った小料理屋、カウンターだけのその向こうにきれいな女性が待ってくれていた。私のために早い時間に店を開けてくれたようだった。きれいに磨かれた白木のカウンターに掛けるとタケさんが酒を注いでくれた。ぶ厚い手のひらで、若い頃は喧嘩が強く有名だったと誰かが言っていたのを思い出した。私が注ぐとその手を取って「宮島君、赤切れてるな」とぽつんと言った。
タケさんとは歳の離れた兄弟じゃなく、もう親子の年齢差だった。その時に何をしゃべったかなんて憶えていない。タケさんのその一言がいつまでも心に残っている。
寒い寒い冬の夜、仕事がスッキリ終わって酒を飲む夜には時々そんなことを思い出す。その頃よりぶ厚くなって赤切れのない自分の手を見てそんなことがあったことを思い出すのである。