研師(とぎし)ヒデの話「ヒデの聖戦」その2 アパートでの出来事
アパートの前に立った時、ヒデは懐かしさを感じていた。
幸せな昼下がり、子ども達の遊ぶ声、ブランコを漕ぐ音、そよ風が揺らすベランダの洗濯物の音まで聞こえてくるように思えた。
そんな幸せな時間をヒデは過ごしたことは無い。でもそんな幸せな時間があることを知っていた。ずっと憧れていた。
でもその場所の今は、使いまわしされ塗装のはげた古い万能塀に囲まれ、雑草が茂り、人の生活する気配は無かった。そして夜のその姿は人を寄せ付けない雰囲気を持っていた。
「ヒデさん、」
智が声を落として囁いた。指さした方向を見ると万能塀が一枚ずれて人が出入りできるようにしてあった。そこから出て来た人影を智は見つけたのである。街中であるのに街灯も無い。でもその夜の月は明るかった。
ヒデもそこから出て来た老女を目にした。回りを窺うそぶりも無く足を引きずるように歩きだした。それはどう見ても認知症の老女の歩き方だった。
「あれ、タケ婆やじゃないの」
智はそう言い、その老女のもとに走り寄った。
「やっぱりそうだ。僕だよ、婆や、智だよ」
そこで老女は気がついたようであった。
「お坊ちゃん、どうしてこんなところに」
老女は智がまだ幼い頃に智の家で家政婦として働いていたという。助産師でもあったタケは智を取り上げ、そのまま智の家に住み込んで智たちの世話をしたという、智も実母の顔を知らなかった。タケはある時期までの智の育ての親のようなものであった。
「まあ、立派になられて」
とは言うがその後の二人の話は噛み合うことは無かった。
明らかにタケは認知症だった。
そんなタケであったが、どうしてそこから出て来たのか、中で何をしていたのかを問うと答えようとしない。認知症でありながら、強い意志で何かを隠そうとしていた。
「お坊ちゃんが来るところじゃないです」
そう言い智が載せた両肩の手を振りほどいて逃げるように駆け出した。
でも、認知症の老婆はここしばらく走ったことも無かったのであろう。足はもつれヒデの目の前で転んだ。
ヒデはしゃがんでタケ婆を抱き起こした。
「間違いなく何かがあるな、婆さんを家まで連れて帰れ」
ヒデは智にそう言い、その場から二人を帰らせた。
ヒデは悪い予感と身に迫る危険を感じていた。
そしてなぜかあの赤い夢を思い出していた。
「ニァ〜オ〜」
そこにどこからともなく三毛猫がやって来た。三毛猫は私について来なさい、と言わんばかりにヒデの前に躍り出て小走りに駆け出した。
ヒデの野生に近い勘が働き出し三毛猫とともに電柱の陰に身を潜めた。
万能塀の間から姿を現したのは髪の長い若い女だった。
離れているヒデが感じるほどの強い殺気を放つ若い女だった。
「タケさん、タケさん、何かあったの」
物音を聞きつけて若い女は出て来たのだろう。
智に早く連れて行かせて正解だった。二人の姿はもう見えなくなっていた。
「なんだ、よかった。ひょっとしたらフクなの、そこにいるの?」
「フク、フク」
と、女が呼びかけると足下の三毛猫は一瞬ヒデを振り返り「ニャーン」と返事して「ニャニャ、ニャニャ」と女に向かって鳴きながら走って行った。
フクと呼ばれた三毛猫は女に抱かれて塀の中に消えて行った。
あたりにはまた静けさが戻り、一部始終を見下ろしていた月だけが煌々とあたりを照らしていた。
フクと呼ばれた三毛猫は明らかにヒデを意識して物陰に連れて行った。
「俺に何かを伝えたかったのだろう」
今晩は深入りしない方がよさそうだと思いヒデは刀剣たちが待つマンションに足を向けた。
そしてヒデは聞き逃がしていなかった。
女と三毛猫が消えたすぐ後に鉄扉の開閉音と微かな赤ん坊の鳴き声がしたのを。
でもそのあと女がフクに語りかけた言葉は聞くことが出来なかった。
「明後日は出荷の日、私のそばにいてね」