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晩秋にふと思い出す

なんだかまったく秋らしくないが、暦はすでに晩秋に突入している。ずいぶん昔ではあるが、本来の晩秋に一人岡山の山奥に旅に出たことがある。

うろ覚えである。人は憶えていたくない嫌な記憶に無意識のうちに蓋をできるのかも知れない。そんな記憶が今朝、ふと湧き上がったのである。

私が愛知県豊橋市でまだ小学生をやっていた頃のことである。5年生だったように思う。父は気楽に海外への長期赴任、私は母と兄との三人暮らしだった。そんな時に脳に障害のある兄は一図な母の判断のもと、岡山の地方都市の病院で脳の手術を受けた。首都圏の大学病院から違法性のある手術を行い追い出された医師の執刀だったと後年に父のもと上司から聞いた。
母にはもう頼るものは何も無かったのかも知れない。藁をもすがる思いでその医師に頼ったのかも知れない。
たとえ信頼する友人からの勧めで帝王切開を断り自然分娩したとは言えども、自分の意志で下した決断で兄に生涯降ろすことのできない重い荷を背負わせてしまった。その苦渋は母に忍び寄ったアルツハイマーがきれいに拭い去ってくれるまで続いたのである。

そんな母と兄に会うために兄の手術が終わってから一人で岡山まで行ったのである。歩いて5分の豊橋駅から新幹線に乗り、岡山駅で在来線に乗換えた。山の中の川沿いを走る列車だったのを憶えている。たぶん駅まで母が出迎えに来てくれたのだろうが憶えていない。残る記憶は兄の個室の病室と近くの小さなスーパーマーケットである。岡山の山奥の小都市の小さなスーパーマーケットで総菜と菓子パンを買った。スーパーマーケットの隣の団子屋で母は団子を二本だけ買った。一本は兄の好きなきな粉、もう一本は私の好物のみたらしだった。

兄の待つ古く明るくない病室に戻り、夕食を済ませた兄はきな粉の団子を美味そうに食い、私と母は話をしながら冷たい総菜と菓子パンを食った。何を話ししたかなんて憶えてない。でも一人暮らしをしていた私に「ちゃんとご飯食べてるの」「学校行ってるの」そんな話だったに違いない。
豊橋より寒いその地方都市の病室で、いつもは母が寝ている幅の狭い付添い用のベッドに私は横になり、母は廊下から持ち込んだ長椅子に横になって寝た。ヒーターの暑さが気持ち悪く眠れなかった。包帯をグルグルと頭に巻き付けた兄は死人のように眠り、静かな病室で母の規則正しい寝息だけが聞こえた。母は心身ともに疲れていたに違いない。私の顔を見て安心したに違いない。

次の日のことは何も思い出せない。「じゃあ」と言って別れたのだろう。在来線で山あいを抜け、岡山で途中下車して昼酒を飲める場所を探すこともなく、小学生の私は一人新幹線に乗り換えて豊橋まで帰ったのであろう。

今になってこんなことをなぜ思い出すのか分からない。この先の私の人生に何か付加でもあろうかと、考えるが決してそんなことは無いのである。

晩秋に思い出す記憶とともに私に欠けていた母の人生像が組み立て直される。決して私はマザコンではない。でも今思うに母のことが好きだったように思う。母のことがいとおしいが、決して口には出してはならぬ、母にこれ以上の負担を増やしてはならぬと思っていたに違いない。

日は早く落ち出し、朝夕の気温は低くなり、誰もが鬱っぽくなるこんな時期だからこんなことを思い出すのかも知れない。たぶんこんなふうに文字にしたためる事がなければすぐに忘れてしまう記憶なんだろうと思う。そして死んでしまうまで思い出すことなど無い記憶なんだろうと思う。


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