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JR西日本 大阪環状線京橋駅

さて、何から話せばよいやら、私の営業マン人生のスタートはこの京橋であった。
京橋は立地が良い。公共交通機関の乗り換えの要地である。大阪府下での乗り換え人数ランキングで梅田・大阪駅が第一位、次が難波駅、その次の第三位が京橋である。
JR環状線の駅であり、京都南部に続くJR学研都市線と、あの大事故のあった尼崎に向かうJR東西線の起点でもある。
京阪線、地下鉄鶴見緑地線の駅でもある。

大阪駅、新大阪駅も遠くなく、京都へも京阪電車一本で行け、『モノづくりの街』東大阪も目と鼻の先である。
そんな好立地にあるホテル京阪京橋の稼働率が97%であったことはゼネコン営業マンの間では有名だった。

時代の良かった当時のサラリーマンたちは会社から払い切りで支給される宿泊料と日当で、なるべく安いホテルを探し差額をポケットに入れ安くて旨い飲み屋を探し、翌日の戦い前にしばし羽を伸ばし夜の楽しみに興じたのである。私の思う大阪らしい歓楽街のこの京橋はそんなサラリーマンたちにもってこいの場所だったのである。

私の勤めていた会社の大阪支店は京阪線沿い、京阪京橋駅から淀屋橋に向かって歩きすぐ左手にあった。自社ビルは再建計画の中の一物件として他人の手に移り今はユー〇〇〇情報専門学校となっている。

京阪京橋駅から高架下を足取り重く会社に向かうことがよくあった。若手を営業に起用する時代になりかけて、私は営業に転身した。
まだ年寄りの営業部長ばかりで仕事は天からまあまあ降ってくる時代の営業部で、若手のNo. 1の仕事が本当に出来る営業課長の下についた。
覚えることばかり、初めての難しいことばかりであったが手取り足取り気長に教えてくれる課長だった。

課長は毎晩私が報告書を書き終えるまで待っていてくれた。そして朱筆で訂正箇所を示してくれ、また書き直した。もちろんワードなど無い時代に手書きの報告書が出来上がるのはいつも遅い時間だった。

それから京橋の安い居酒屋に二人で出かけた。たくさんの経験をそこで教えてくれた。話が興ずるとそのままタクシーで北新地のおばちゃん一人でやってるコの字型のカウンターだけの安いスナックに連れて行ってくれた。帰りのタクシー代以外はすべてその課長の自腹だった。
頭のいい、スカッとした尊敬すべき先輩であった。

仕事も人間も心から尊敬しており、その課長の勧めで奈良のニュータウンの戸建てを買い、同じ街の住人になった。それくらいその先輩を信奉していた。
しかし、しかしである。先輩も普通の人だったのである。

若かった私はその後、ドサ回りのようにたくさんの上司に仕えた。そしてその時、私は京都にいた。

その頃先輩は偉くなり営業部の責任者をしていた。大きな仕事をいくつも受注に導きそのたびに着るスーツや持ち物が変わっていった。私を連れて行ってくれた京橋の場末の居酒屋や、窮屈な北新地のスナックなど行かなくなっていた。高級クラブの若い女とマンション暮らしを始め奈良には帰らないのを知っていた。

京都の地方都市で私は念願であった知的障害者の施設を岡山の先輩の協力で受注直前まで持ち込んでいた。
その都市の駅前で世話になった元課長は大きな物件を手掛けていて、その地域に熱い思いを持っていることを知っていた。
しかし、私の追っていた物件は税金の使われるいわば官庁物件に近いもの、慎重に水面下で進めなければならなかった。

忙しい夜に大阪支店まで呼び出されわざわざ応接室で待たされた。そこで「お前は他人ヒトのシマを荒らしているのが分かっているのか」と釘射されたのである。
『組』と社名に付いた会社であったが、暴力団に入社したつもりはなかった。私は何も口に出来なかった。その時にその元課長とは決別した。

そして、私の仕事には想像していたように妨害が入った。入札の妨害であった。電話で無いことをあるように言ってくるヤカラがいた。そのあとのことはここに書けない。しばらく飯も喉を通らなかった。

入札当日、すべてが終わり、なんとか京橋まで帰って来た時には家に帰る電車は無かった。一人で京橋を彷徨さまよい、元課長とよく行った飲み屋に行き酒を飲み、タクシーで帰ればいいのに歩いて奈良までとぼとぼ向かった。


会社は大きな時代の波に飲み込まれ多大の債務を背負いこむこととなり、私は退社しましたが、実はこの時に辞めることを決めていました。
「もういい」そんな感じでした。
今でも京橋に時々行きます。京橋では一人で飲むのが好きです。
私の心の中で昇華されたそんな昔のことを思い出したりして独り安い焼酎をあおります。
その頃、若い頃の思い出と今が交錯する中で独り飲む酒は不思議です。
決して懐かしんでるわけじゃないのです。なんだか自分の心のバランスを取りに来ているような、自身が今歩んでいる道を確かめているような感じです。

京橋、そんなこんなで私のサラリーマン人生の起点であり同時に終点でもあったのかも知れません。
JR京橋駅、私にはそんな特別な駅です。

大阪で瓶のホッピーに出会うことは極めて稀です、、、




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