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『敬老の日』に思う
子どもの頃からこの『敬老の日』ってのに感慨がない。
お年寄りを大切にするように両親から教えられていたから、特別にそんな日があるのが不思議だった。
シルバーシートと同じである。
どうしてもシルバーシートを設置したいのならば、全車両がシルバーシートでいいのだ。
日本の人口の3割以上を65歳以上の高齢者が占める日がもう目の前に迫っている事もずいぶん前からわかっている事である。
今さら騒ぎ立てるのが不思議である。
今後、高度成長期を生きてきた私の両親達が享受したような保障は公に求める事は出来ないのもずっと前から分かっていることである。
自分の身は自分で守らなければ守らなければならない。
そのためにはまずは自身の健康であろう。
長年両親の介護に当たって尚更そう感じている。
自身の健康と引き換えに戦後の復興に寄与してきた両親達に待ち受けていた老後、仕事以外の楽しみが無く、無為の時間の過ごし方を知らなかった。
そんな人間にとっての老後の楽しみって何であったんだろう。
ましてや私の両親のように障害を持つ子や家族を持つ人間にとって老後、いや残された人生は苦悩と苦痛以外のなにものでもないように思う。
両親にはもっと気楽に生きてもらいたかった。
子や家族が障害を持った理由は考えても仕方ない。
考えても時間を巻き戻せるわけではないから考えるだけ無駄である。
まずはその子、その家族が一人で生きていける方法を模索するべきである。
そして巻き込まれてしまう人間を一人でも減らすことを考えなければならない。
本人達は、少しは利己的になって自身の楽しみを考えるべきである。
健康な精神と肉体を持つ間に楽しさを感じなければならない。
お年寄りを大切にするのは当たりのことである。
だから、『敬老の日』で年寄りを思い出すのは不思議である。
もうすぐ私もお年寄りの仲間入りをする。
いつまでも健康でいてなるべく長く仕事をして、誰の手も煩わさずに天寿を全うしたいし、させて欲しい。
夜中に私を起こす老猫ブウニャンをなでながらそんなことを考えていた。
そして、誰にでも過ちはある、その過ちにだって深い意味があるのかも知れない。
老後を贖罪のために生きるなんて間違っていると思う。
そんな何かを引きずって生きている人は『その日』を決めてリセットしたらいい。
それが『敬老の日』であってもいい。
誰にだって過ちはあるものである。
贖罪のため日々を生きていた母は恍惚の人となったその時、障害を負わせて出自させた兄への悔恨を忘れ去ることが出来たのだろうか。
いつまでも払拭できぬ私の疑問である。