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少し寂しきこんな夜に
日曜日に合気道の所属会の年に一度の総会と新年会があった。
稽古を終えての冷たい夜道、誰も見向きもしない黒々した道頓堀川に向かって一人立ち、缶ビールを開けて会場に向かった。
この3年ほど、道頓堀の同じホテルで総会・新年会を行なっている。200人ほどの各道場の関係者を集め、予算も勘案しながらの会場設定にはご苦労があるだろうと主催者側に感謝する。
会場は以前の立食形式ではなく、中華の円卓で皆に席があった。久しぶりに見る顔も少なくないが、考えれば年末の演武大会で顔を合わせた連中が多い。そうそう新しい話題も無く形式ばかりの懇親会である。
へその曲がった私はこんな飲み会は好きじゃない。誰に酒を注ぐこともなくやって来たビールをチェイサーにしながら紹興酒をコップに一杯、氷を一つ浮かべて飲んでいた。時間がたって冷めつつあるふやけた焦げ料理の餡は薄まり、なんだか初めて口にするスープを飲むようで変な美味さを感じていた。このふやけた焦げ料理が妙に口に合って悪い調理師じゃないなと、京都で寮生活をしていた若い頃に通った中華屋の若い店主を思い出していた。
いつも頼んだのは餡かけのラーメンだった。いつ食べても異常に熱く口の中を火傷していた。毎回毎回火傷していた。
私より10歳ほど年上の店主はある日店を閉めていなくなった。噂では悪いギャンブルにはまり借金まみれになってヤクザの取り立てから夜逃げしたとのことであった。
私の住む寮は会社の上にあった。当時京都のヤクザの事務所が集積する地域だった。高度経済成長期、名神高速道路の建設がありジャンクション近くの田畑だったその場所は彼らにとって、西に東に腰軽く動くことのできる好立地だったそうである。たしか、警察関係者から右翼左翼の団体まで含めて30数団体いると聞き、私のいた建設会社も○○組だったので。「うちもカウントされてるの?」と聞いたら「関係あらへんわ」と言われた。
私の記憶に残る美味い餡かけラーメンは以来口にできなかった。当時心から近隣住人たちを憎んだものである。
大勢で飲むのが嫌いじゃないが、酒の席でおべっかを使うのが嫌なのである。合気道の目的が皆違うから仕方のないことだと思いつつ、でも面白くないものは、いつまでも面白くない。会の責任者だから顔を出すが、できれば遠慮願いたい場所である。
少し前までは流れでそのまま難波のネオンに誘われたのだが一人さっさと自宅に足を向けた。歳を取ったのかなと思いもしたが、自分に正直に生きることができるようになったのかなとも思った。
天王寺で途中下車し、立ち飲み屋で一人冷たい日本酒を飲んだ。やっと自分の時間である。無限だと思っていたがそうではなかった残された時間を考えると、時間は大切にしたい。
40年前に私の目の前から消えた中華屋の兄ちゃんは、ひょっとしたらどこかでまだ鍋振ってるのかな、なんて考えながら、自分に正直に生きた人だったのかな、なんてことを考えてるうちに寂しく夜は更けていった。