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ある日の朝メシ(出せぬ手紙をしたためています)

前の晩に作ったポテトサラダ、黒胡椒がいつもより辛かった。
黒胡椒をミルで挽いて料理に使うなんて以前の私の生活にはあり得なかった。
いや、一般の日本人の家庭でミルとホールの黒胡椒を置くのはレアなことだったと思う。
そんなことを考えながらサンドイッチを頬張り、大学の一年先輩を思い出していた。
合気道部の一年上、年齢は私と同じだった。
なんだかズレた人だったが、悪い人じゃなかったから好きだった。
合気道にかけてはこの40年間で出会った稽古人のなかでも指折りに純粋な人だったと思う。
そして、合気道のセンスがよく、強い人であった。
試合の無い合気道に強い弱いがあるのかと聞かれることが時々あるが、私たちには向かった瞬間、手を取った瞬間に分かるのである。
「殺されるかも知れないな」と。
合気道は武道・武術であり競技・スポーツではないのである。

私の想像の付かない世が世であるならば、口をきくこともできない家庭で育った箱入り息子の先輩である。知らぬがための強さもあったのだが、誰よりも優しく、そして弱いメンタルを持っていた。
たぶん、そういう家庭が妬ましかったんだと思う。合気道部各代の先輩たちが頭を悩ませていた監督にとことんいじめられた。そして、先輩は引きこもってしまったのである。
たくさんの事があったが、出て来てくれた。一年留年して私たちと卒業した。
出て来るまで何度も二子玉川園のご自宅に行った。そのたびにお母さまが私たちに見たことの無いようなご馳走を腹いっぱい食べさせてくれた。寿司も鰻も「並」じゃなかった。いつも血の繋がっていない爺やが庭木を切るようなそんなお宅だったのである。
お父さまは大学教授、お母さまは裁判所に勤めていた。戦後その命を閉ざされたおじいさまは誰もが一度は教科書で顔を見る方であった。
私は後輩たちに同じ辛い思いをさせてはならぬと思い、私たちの代でその監督には辞めてもらった。もちろん簡単なことではなかったし、いまだにその監督と奥さんに私は恨まれている。しかし、合気道部のご法度である部内恋愛を監督自ら崩して自分の後輩を嫁にしている男だったから、私にしたらすべてが言語道断であった。
その頃まだ健在だった師範も私を咎めることはなかったから、良かったと思っている。

そんなことがあって元気になってくれた先輩であった。そして、しばらくしてからは監督をやって、後輩たちの面倒をみてくれていたのである。
しかし、私は東京を離れ、合気道をしばらく離れ、京都祇園の夜のしじまと同化している頃にまた引きこもってしまった。
ご両親は亡くなっており、難しい兄弟関係も原因したのだと思う。
今は会社勤めも辞めて消息を絶っている。
なんで、会社勤めなんかするのか理解できなかった。
卒業して合気道を生業にしていく人だと思っていた。
そんな家に生まれたからわざわざ普通のサラリーマンを目指したのかも知れない。
家庭を解散し、一人身になった今、また合気道の世界に帰って来てほしいと思うのである。
もしも、この文章を目にする機会があるのであるならば、また私たちと同じ畳の上に立って欲しい。
まだ遅くはない、そう思うのである。


8月15日のその日を迎えるたびに先輩とおじいさまの顔を思い出しています。
お会いしたことの無いおじいさまは、きっと多くを抱え先輩と同じように多くは語らずに苦悩とともにあの世に行かれたんだと想像しています。
先輩、まだ間に合います。
私にまた合気道を教えてください。
人生にはタイミングがあります。始めるタイミング、やめるタイミング。
先輩、まだそのタイミングじゃないですよ。
まだしばらく私は待てます。
きっと帰って来て下さい。

田村先輩
                         令和五年七月十六日
                              宮島秀樹

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