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御母衣ダム 荘川のさくら つづき

五十数年前の東京、私はまだ就学する前。
母は兄の手をしっかり握り雑踏をかき分けるように進み、私はその後をちょこちょことはぐれないように一生懸命歩いていた。
まだ望みを捨てていなかった母は、馴染みのある医師のツテで兄を連れて都内の病院を一軒一軒渡り歩いていたのだ。
出生時の無理が兄に難治性てんかんという不治の病を背負わせた。
世のすべての母親がそうであるように母には兄のために厭うものなどなにもなかったのである。
雑踏での母の後ろ姿と病院の薄暗い待合室の思い出しか、子ども時代の私の知る東京にはない。

そんなある時私を不憫に思ったのであろう、私は一人で六本木の病院に預けられた。
私と同じ苗字の付くその病院の先生も奥さんも親戚でもないのに妙に馴れ馴れしく母と嬉しそうに話しをしていた。
「おハルさん」と母を呼ぶ。
母も東京では見せることの無かった笑顔をその二人の前で見せていた。
そして、泣いた。

ここからさらに十年以上時間は遡る。
現在からであれば六十年以上前になる。
先生、奥さん、母は御母衣ダムの診療所にいた。
ダムは電源開発の発注、国と電力会社各社が株主である日本の建設を下支えしてきた会社である。
先生は奥さんと娘二人と共にそこの診療所に派遣されていた。

先生は東京育ち、奥さんは育ちは地方ではあるが大きな食品会社の社長令嬢、二人とも山なかでの生活などしたことはなかった。
奥さんはそれまでに看護師の資格を取り、診療所の業務を手伝い、幼い娘二人を育てながら家事もこなそうとしていた。
必然的な無理はあった、そこにハルヱが登場したのである。

看護師としての業務はもちろんのこと、家事も娘の相手も全てハルヱが手伝ったそうである。
駆け出し看護師の奥さんは診療所の婦長にいじめられたそうである。
そしていつもハルヱが慰めたそうである。
ハルヱは二人の慣れない山奥での仕事、生活の支えになったのである。

建設現場は3Kの代表選手である建設業の最前線、当時の最新の建設機器を導入しての工事ではあったそうだが現在とは比べものにならない。
事故は多く、重傷者が多かったそうだ。
村の診療所としても機能していたそうである。
想像でしかないが、たぶん朝から晩までずっと忙しいダムの診療所だったに違いない。
天衣無縫のハルヱはともすれば陰気になりがちな診療所の雰囲気を明るくし、先生一家にも元気と明るさを与えた。

それだけでも十分おハルさんには感謝しなければならないのに、大きな事件でおハルさんには一生頭が上がらないと先生と奥さんは言った。
診療所での大きな事件とは火事であった。
人の命を預かる診療所で傷病以外で命を落とすことなど決してあってはならない事だったと言う。
診療所長である先生の進退や将来にまでかかることだったのである。

なのにある日、診療所で火事が起きてしまった。そして、その時まだ中には年老いた夫婦が残っていた。
その事に逃げ出してきた皆が気付いた時にはおハルさんはすでに火の中に飛び込み、しばらくすると病身のおじいさんを背負い、おばあさんを手に引き出てきた。
安堵の中、皆は拍手喝采だったそうだ。
行動の早い人であった。
何を一番にすべきかすぐに判断出来る人であった。
母の存在無しに診療所生活を乗り越えることは出来なかったと、先生と奥さんは言ってくれた。

これは子どもの頃一人預けられた時に聞いた話じゃない。
先生たちだって子供にするような話じゃないと思っていたに違いない。
このことはほんの五年ほど前に先生ご夫妻から聞いたことなのである。
母は一言も私にそんなことがあったのを語ることは無かった。
良くも悪くも多くを語らない女性であった。

荘川の桜は見ていてくれたに違いない。
母ハルヱの飾らない勇姿を。

実はハルヱはこの御母衣ダムで一人の女性の人生を変えていた。
そのことも母は私に語ることは無かった。
長くなる、それはまた明日続けることにする。


母の子どもの頃のことを以前この note に書いた。
貼り付けておくのでよろしければ読んで欲しい。


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