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阿倍野の飲み屋のものがたり その2    (水なす編)

みなさんは『水なす』をご存じだろうか。
大阪、泉州で主に栽培出荷される暑い時期に出回る丸い、元気なナスビである。
泉州、そう、あの心休まる水彩画を描かれるスケッチ師匠のお住いの地域である大阪南西部をさす。
堺あたりから大阪湾沿いのエリア、あの関西国際空港を含み、和歌山の県境にある岬町くらいまでを言う。

このnoteの世界で私が唯一師匠と呼ばせていただいている『水彩スケッチ帖』さんはこの泉州在住、泉州の絵をたくさん描かれています。
良き環境の大阪だと常々思っています。
是非スケッチ師匠の絵で皆さん泉州をご堪能下さい。

ちなみに、あの昭和のオヤジそのものの『アルプ・スナフキン』さんには先輩と呼ばせてもらおうと提案したのですが、見事に拒否られました。
スナフキンでいいよ、となんとも格好のいい兄貴じゃないですか。
だから、心の中で『先輩』と呼ばせてもらっています。

そして、寡黙ながら存在感のある『せきぞう』さん含め、お三方に毎回叱咤激励、お力を頂き、愛を感じながらこのnoteでの活動を続けれることが出来ています。

まったく絵画に関しては門外漢の私ですが、文章でじわじわと広がる感動とは違う、目にした瞬間に全身に広がる気持ちの高揚、安堵、背筋がぞくぞくするような感じは私の文章に影響を与えてくれていると思っています。
みなさんにもその感動を是非味わっていただきたいものです。



さて、ここから本編に戻ります。


これからの暑い季節になるといつも水なすを思い出す。
熱い熱い季節になると無性に水なすをかじりたくなる。
大阪に来るまでこの泉州産の『水なす』を知らなかった。
ゼネコン時代によく行った京都の料理屋で食べた水なすの糠漬けが美味かった。
でも、スーパーや百貨店で目にする水なすは高価で、手を出すのには勇気のいるものであった。
だから、単価の安い私の立ち飲み屋で置けるアイテムではないと思い込んでいた。

私も何度か行ったことがある阿倍野で知る人ぞ知る繁盛店の飲み屋がある。
ここのオヤジは個性的な先輩、頭脳明晰な社長、魅力的な経営者である。

『朝までやってます』って、飲み屋の看板を目にしたことのある人は案外少なくないと思う。
ならば、『朝からやってます』で行くぞ、と、朝7時から店を開けることの出来る人なのである。
付近の店はそこの動向を伺い、真似をしている。
だからその界隈はこの流行り病以前は朝から何の罪悪感も持たずに酒の飲める、私のイメージする大阪らしい大阪だったのである。

その社長は私の店のすぐそばのマンションに住んでいた。
社長の住む部屋はそのマンションの中で一番広く、飛び出たバルコニーになぜか背の高いアフリカの民芸品のキリンが一人ぽつねんと立っていたのが印象的である。

開店二日目からほぼ毎日来てくれた。
自分の名前、身分を名乗り、困ったことがあればなんでも聞いてくれ、とカウンターでいつも文庫本を片手に静かに酒を飲むダンディーな方であった。
毎日、自分の店の仕込みは閉店後の23時から始め、明け方に大阪東部市場まで買い出しに行き、朝、店を開店させて従業員のお兄さん、お姉さんに接客は任せて自身は仕込みを続ける。
終わるのは午前9時頃だと言っていた。
午前中に自室に帰り、仮眠すると言ってた。
私より一回りも年上である。化け物のような先輩だといつも思っていた。

熱い熱い夏の昼前、私も仕入れを済ませて仕込みをしていた。
小さな飲み屋ではクーラーの電気代もバカにならない。シャッターを半分降ろして入り口を開けて換気扇を回し、タオルを首にぶら下げて仕込みをしていると、「宮さん、いるかい」と社長が入って来た。
そして、使ってくれとスーパーのビニール袋一杯の水なすを持ってきてくれた。
それがシーズン中ずっと続いた。
聞けば、昔世話した男が義理を忘れず毎年水なすを送ってくれるんだが、うちの店だけじゃさ、さばき切れないから使ってくれ、と言う。

不思議な社長であった。
仮眠後には必ず寄ってくれた。
飲みながら読むのは宮本輝だった。
あいりん地区で拾って来たホームレスを自宅に住まわせるのも厭わない人だった。
「帰ったら、風呂湧かしてくれてるわ」と笑いながら言える人だった。
どこに行っても、誰に対しても、私にしてくれたように人に優しかったに違いない。

見返りを求めずなすことは、いずれ自身に返ってくることと、勉強させてもらった。
この社長の話は始めればきりがない。
開店二日目から、向こう見ずの元気だけのこの私のことも『仲間』と認めてくれ、最後の最後まで世話してくれた。

こんなふうにして私の飲み屋のものがたりは紡がれていったのである。


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