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餃子入り巾着

創作料理をする飲み屋が好きである。
でもその創作は気位の高い、私に敷居を高く感じさせるような店の創作料理じゃない。
いつも行く店、気軽に入れる店、オッチャンとオバチャンが「おつかれさん!」といってくれるような店がいい。

学生時代に行きつけの店なんて、生意気な奴と思われるかも知れないが、学生になる前から自分で金を稼ぎ酒を飲んでいた私にはなんの罪悪感も無かった。ただ、その頃は金が無かった。
大学は西武池袋線江古田駅にあった。私は駅から徒歩5分の飯塚さん宅の離れを間借りしており、大学合気道部の稽古と中華料理屋、飲み屋、警備員、築地の深夜バイトをし、下宿には寝に帰るだけだった。毎月月末にバイト代が入り、その時だけ一軒一人で行く店があった。江古田駅から西武線を沿って練馬方面に少し歩いたところに「やきとんの店」と赤い提灯に書かれた飲み屋があった。踏切に近かったように記憶する。古いがよく磨かれたガラス窓からは中がよく見えた。白衣を着た老夫婦が二人でやってる店だった。ずっと気になり毎夜前を通っていたが、ある月末に勇気を出して入ってみた。
年季の入った暖簾をかき分けて、ガラガラと入ると、やって来た「いらっしゃい」の挨拶には私よりずっと長く生きて来たお二人のにおいがした。「やきとん」は何のことはない「焼き豚(とん)」であり、串に刺さった豚の赤身やらモツの「やきとん」だったのである。焼肉屋で食べるモツが串に刺さっている、そんな感じの料理だった。

そして、「サービスですよ」と言っておばあちゃんがお通しを出してくれた。それが毎回違うのが楽しみになった。
ひじきの五目煮や切干大根も良かったが、私が楽しみだったのはもっと違ったお通しだった。
ツナとキャベツを煮たの、白菜の酸っぱいの、得体の知れない肉と野菜の炒め物やらに煮物もあったように記憶する。それは老夫婦のどちらかが、心を込めて作ってくれた創作料理であった。創作料理というよりも名も無いおかずだった。思えば母ハルヱが冷蔵庫発掘隊長となり時々腕を振るった料理にも似ていた。

食べていつも考える。料理の人となりを考える。私の両親、育った環境があって今の私があるように料理は料理人が育て作り上げるものである。人を見ればその親や育った環境を想像してしまうように、食べる私は料理で調理人を思ってしまう。それは優しい味ばかりではない。時には悲しみをも乗り越えて生きるがために包丁を握る調理人もいるであろう。いつも同じ味を客に提供を、と考えるだろうが、その違いはなんとなく伝わるものである。

長い人生を歩いてきたお二人のその味は、そんな事は超越したかのようなものだったのである。月に一度行ったその店とは卒業時に挨拶し「頑張ってくださいね」と言われ別れた。そしていつしか「やきとんの店」は無くなり私の記憶から消え去ろうとしている。

そんな事を思い出しながら口にしたのがこの餃子入りの巾着なのである。帰宅途中の立ち飲み屋のおでんの品書きに「餃子」とあった。「焼売」は時々見かけるがおでんに餃子はなかなか無い。焼売も煮崩れてしまうから、注文が入ってからカラスの行水のようにおでんの汁にしばらくだけ沈めこむ。そうするものかと思えば違っていた。薄上げの巾着に包めば煮崩れない、しかも餃子は2粒入っていた。厚揚げと目の前に出された餃子は皮はふやけ、おでんの出汁は餃子の奥底まで染み込んでいた。
なんとも簡単ではあるが、ここのお姉さんの手間と原価低減の知恵がともに染みこんでいた。
「ああ美味い」冷えた体におでんの餃子と熱燗が染みこむようであった。

今までたくさんの料理とたくさんの酒が私の身体を通過していった。そしてまだそれは続くだろう。高くて美味いは当たり前、安くて美味さを求める大阪にいまだ足踏みをしていることになんとなく運命を感じながら、この気安さにいつまでも浸るなと言われてるような気がしないこともない。食の思い出は時に私に忘れていた新鮮な気持ちを思い出させ私の尻を叩くことがある。そんな時、くたびれ果てたこの身体を見下ろし「さて、」と考えるのである。


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