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見当違いな知恵を得ること。

先日、ノーベル物理学賞を二酸化炭素の温暖化影響を予測した績により真鍋淑郎が獲得した。

彼の好奇心やその先見の明に対して私はすごいなとしか思わなかったが、世間では、いつも通り、日本教育についての話題が飛び交っていた。

思っていたより、日本の教育を変えるべきだという人が少なくて驚いた。

案の定、変えるべきだという人もいた。

もちろん私も教育がこのままでいいとは思っていないし、教育自体に興味があるのは確かだ。

しかし、教育を変えることについてどのように変えるべきかの議論なく、変えるべきだというのは、どうなのかと思う。

別に私は教育学の修士でも博士でも先生でもない。ただの一般人だ。

最近人にものを教える機会があって教育は非常に大変だなと思ったところだ。

教育を変えようとよく聞くのは、子供たちが好奇心を持てるようにというものだ。

真鍋さんも会見で言っていたことである。

では、好奇心とは何か。どのようなものなのか。どうしたら現れるのか。なぜ必要なのか。現行教育では好奇心が生まれないのか。本当にそうなのか。他に不備はないのか。

このような質問を投げかけられた時に答えられる人はいるのか。

例えば、好奇心とは、自発的な外に対して働き変える心の有り様である。社会的に見たら、非常に必要である。なぜならば、それがあると日本の研究は良くなるからだ。現行教育で好奇心が生まれないかといえば嘘である。なぜならば、YouTubeやTik Tokなどの動画発信のプラットフォームに興味を持ったり、Twitter,LINEなどのSNSに興味を持ったり、ApexやFortniteなどのGameに興味を持ったりしているからだ。では問題は、好奇心の方向が学問領域に来ないことなのではないか。それはおそらく、勉強をしたくないものと考えるようになっているからではないか。などなど、私はこのように述べていくと思う。

もちろん検討外れなことを言っているかもしれない。

そんな時に救ってくれるのが話し相手だ。

別にこの堅苦しいトピックではなく、もっと柔らかいニュースでもいい。

話していると思わぬ収穫がある。私はそれを「見当違いな知恵」と呼んでいる。

例えば、この人は考えている時、この仕草をするなと思った時に、この人の仕草のルーツはどこなのだろう、全国的に見てこの仕草は一般的なのだろうかと考える。

これが「見当違いな知恵」だ。

そうして生まれたものを貯めていく、そうすればどんどん世界は広がっていくだろうし、面白い「知恵」が見つかるだろうと思う。

こういう「知恵」を求めるのが好奇心ではないかと私は思っているのだが、どうなのだろうか。

コメント欄の意見に対してフラストレーションが溜まっていたようだ。反省。


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