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東京北の丸公園の北白川宮能久親王像を訪ねる

11月4日の朝、青空が広がり、心地よく肌を引き締めるような秋晴れの空気の中、私は北の丸公園にいた。目の前には、今にも走り出しそうな軍馬と共に、躍動感に満ちた北白川宮能久親王の銅像が立っていた。

北の丸公園の北白川宮能久親王像

台北の西門にある中山堂で、孫中山(孫文)の銅像の場所に立っていたとされる北白川宮能久親王の記念碑。その人物の姿を求めて、日本に一時帰国した際に、その銅像があると聞き、この北の丸公園を訪れた。

北白川宮能久親王は、黒船来航の6年前の1847年(弘化4年)に生まれた。幕末には、徳川方の立場から新政府に対し、徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行ったとされている。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の盟主として擁立されたが、のちに新政府に降伏し、京都に護送された。その後、伏見宮家へ預けられ、やがて赦免されると、1870年(明治3年)、23歳の時に、プロイセン(後のドイツ帝国)へ留学した。1877年(明治10年)に帰国後、陸軍に勤務、1892年に陸軍中将に任命された。

1895年(明治28年)、日清戦争の結果、日本に割譲された台湾の平定のため、近衛師団長として出征したが、同年10月28日、台湾全土平定を目前にして台南にて病に倒れ、逝去した。遺体は安平から西京丸で本土に運ばれ、国葬に付された。皇族としては初の海外での殉職者となる。享年48歳。

銅像の説明文にある「炎熱瘴癘の地」で亡くなるという表現にはいささかの違和感を感じるが、当時の日本人には、台湾がそのように捉えられていたのだろう。実際、当時、日本から台湾に渡った兵士は、熱帯病で命を落とす人も多かった。日本は、日清戦争の結果得た植民地を統治し、繁栄させようとする一方で、一部の台湾の人々にとっては、大陸の遠く離れた清の為政者が、現地の意向とは無関係に支配権を放棄し、代わりに新たな支配者がやってきた形であった。衝突も避けられなかった。

その後の台湾は、1895年から1945年までの50年間、日本統治時代を迎えることになる。初期には度重なる抵抗や衝突もあったが、平定以後は、本島人と内地人の区別やそれに伴う社会的緊張や問題もあったものの、教育の普及や民生の拡充、産業の発展により、台湾全体の経済社会は徐々に発展していった。

参考
【台北散歩】中山堂の孫文の銅像の歴史 24.10.31
【台北散歩】西門 中山堂に歴史を見る 24.10.20


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