【台北散歩】西門 中山堂に歴史を見る
台北の生活に慣れてくると、ここが過去約150年の短い間に、清、日本、中華民国国民党独裁時代、そして民主化時代と4つの異なる時代を重ねながら、大きく変貌をしてきた街という事を実感する。台湾に代々長く住む人々が、次々と台湾に来る新しい統治者の下で社会生活を送るという事は、日本人にはなかなか分からない感覚だと思う。日本も太平洋戦争前と戦後で大きく変わったが、実質的な統治者は同じ日本人だった。
台北の中心部、西門地区にある「中山堂」は、現在は芸術作品の展示や演奏会、文化講座が行われる建物だが、その歴史や変化を感じると、幾重にも重なる時代が見えてくる。
中山堂がある場所は、清の時代には行政機関の建物があった。日清戦争後の1895年(明治28年)、下関条約により台湾が日本に割譲され、その建物は1919年(大正8年)まで、台湾総督府として使われた。
そして、1936年(昭和11年)に、新たに台湾総督府営繕課井手薫の設計で4年の工期を経て今の建物が完成し、台北公会堂として使われた。当時、その規模は、東京、大阪、名古屋に次ぐ第4位の公会堂と言われる堂々としたものだった。
1945年(昭和20年)、日本の敗戦に伴い、台湾は中華民国に接収された。この建物で日本と中華民国との間の降伏文書調印式が行われたそうである。この台北公会堂は「中山堂」に改名された。「中山」とは、中華民国初代臨時総統であり中華民国の国父”孫文”の号である。
1946年10月21日、大陸の国共内戦で台湾に移ってきた国民政府主席の蒋介石が、中山堂で「台湾光復一周年記念大会」に参加した。その後、陽明山に中山楼が完成するまで、この建物は、国民大会や正副大統領の就任式、国賓客接待場所となった。
中山堂には、2本の大きなガジュマルを背にして、中華民国初代臨時総統、中華民国の国父、孫文(中山)”の銅像が立っている。これは1949年に台湾で初めて設置された孫文の銅像になる。ここで子供の頃遊んでいた台灣人の話によると、当時は、このガジュマルも小さかったという。70年以上の時を経て、カジュマルは大木に成長した。
孫文の銅像があるところには、かつて台湾が日本に割譲された1895年(明28)に台湾に派遣された北白川宮能久親王の記念碑があった(*1)そうだが、後に撤去された。建物内には菊の紋章の跡も見る事ができるが、現在は、菊の部分は中華民国の國花の梅の花に変わっている。
建物の中に入る。2階から3階に上る階段に、國宝に指定されている、台湾の彫刻家黄土水(1895-1930)の彫刻「水牛群像」がある。
黄土水は、日本統治時代の台湾の彫刻家。台湾人として初めて日本の東京美術学校に入学、また初めて日本の官展に入選。台湾近代美術の先駆者として活躍したが、35歳で日本で亡くなった。この彫刻は、黄土水が亡くなった後、1936年(昭和11年)に奥様より台湾に贈られた。あまりに大きいので輸送する際、八分割し、台湾で再び接合したそうだ。
水牛に餌をやる裸の子供、水牛に跨る二人の子供、五頭の水牛。後ろにはバナナの木。当時の台湾の田舎の様子が生き生きと伝わってくる。台湾の原風景がここにある。
建物の中は、当時の建築様式を偲ばせる落ち着き穏やかで堂々とした雰囲気が漂う。
今日の小雨がけぶる中山堂の玄関では、6-7人の若い女の子たちが音楽に合わせてダンスの練習をしていた。3階では、映画音楽に関する文化講座が行われ、若い男性から高齢の女性まで参加していた。
激動をくぐり抜けてきたこの建物の周りで、穏やかな平和が続くことを心から願う。