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プレッシャー下で確保するリフレッシュの時間は「余白」?

先日夫と、「これは余白に当たるのか?」と話しをしていたときのこと。早速意見が食い違い、研究しがいあるな〜と思ったエピソードです。

場面は、プレッシャー下でのリフレッシュの時間。例えば「今日中に仕上げなければならないタスクがあるのにアイデアが出ず完成しない」とき、などを思い浮かべてみてください。夫は、ジムに行ったりランニングしたりして、気持ちを切り替える時間を設ける、ということを意識して取り入れているそうです。

このリフレッシュの時間を「余白」と捉えるかを意見し合ってみたところ、彼は「余白だ」と捉えるのに対し、私は「余白ではない」と捉えていました。深堀りしていくと、お互いの観点が違っていることが見えてきました。

「余白だ」と捉える彼の考えでは、身体を動かしている間はそのことに集中でき、それ以外のことを考えないですむ。つまり一度頭を空っぽにしている状態だ、とのこと。頭の中に「余白」を作っているイメージだそうです。

一方、私は「余白だ」とは捉えていません。なぜなら、その期間にそのことを考えていないだけで、タスクがあるというプレッシャーのかかる環境にいることには変わりないからです。それを「余白」と呼ぶのは、なんだか違う気がします。

何が違和感の原因なのか、と考えてみたのですが、多分それは「切り替えのために意識して設けたもの」であって余白そのものではなく、その名の通り状況を打破するための手段だからではないか?という答えに至りました。

私にとっては、「今日中に仕上げなければならないタスクがあるのにアイデアが出ず完成しない」という状況そのものが、もうすでに「余白」のない状態。その中でどんなに頭を空っぽにできたとしても、それを「余白」と呼ぶことはできないな、と考えています。

彼にとっての「余白」は生み出したもの、かたや私にとっての「余白」はそのときの状態。どちらが正解でも間違いでもないのですが、興味深いな〜と感じました。

さらに掘り下げて考えて気付いたことがありました。そもそも私は、ストレス下にいる中で、あえてそのことを考えないようにする、ということが得意ではありません。気になって気になって仕方ない。間に合わなかったら?完成度が不十分な状態だったら?という不安に押しつぶされそうになります。その環境で、あえて「一旦やらない」を選択することは、ものすごく勇気が必要です。なので、例えば彼が意識している、その状況下で「余白」を設けるということが今はうまくできておらず、だからそれを余白だと捉える機会も、そもそもないんだと思います。

でも、「余白のある生活」には、そういった環境をも自分でコントロールできることが必要。勇気を出してその時間を確保して、いつか「余白」と呼べるときが来たらいいな、と考えています。私が生活の中に「余白」を感じている割合が多くなったそのときは、きっとプレッシャー下でも何かをうまくコントロールする術を身につけているのかも。

みなさんにとって、プレッシャー下で確保するリフレッシュの時間は「余白」ですか?

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