背中を押す存在に報いて生きていく
背中を押すという言葉で記事を書こうと思った。
人間の目は前にしか付いていないから、歩いている間は後ろを見ることは出来ない。
背中を押されているかどうかすらも分からないかもしれないし、何かに押されていることが分かったとしても、それが何かは分からない。
よそ見をしたり、方向を変えたりすることは出来るけれど、自分の背後は見る事が出来ないだろう。
歩いている間に背中を押してくれていることに気づければそれが一番いいんだけれど、歩いている時には、どうしても目の前にあるモノに対して意識が行くものだ。
目の前に障害物があれば避けるか超えなければいけないし、立ちはだかる人がいるのならば対処しなければならない。
歩いている時、目の前の景色は目まぐるしく変わり、それに適応することで、歩みを進めていく。
背中のことを気にする余裕はない。
見えないものが自分の背中を押してくれていると思えるのであれば、これほど勇気づけられることはないと思う。
でも、そんな目に見えないような存在を信じることは難しい。
もし信じられなければ、少し止まって休んでから、辺りを見回してみる。
立ち止まっている間は、通り過ぎた道のりも見る事が出来て、その道のりの遠くの方に背中を押してくれていたものが見えてくることがあるかもしれない。
もちろん人ということもあるけれど、これは現実に存在しないものでもいい。
思い出とか、思想とか、創作とか、何なら自分の今までの道のりそのものが背中を押してくれたりとか。
そうやって背中を押してくれている存在があると分かったのなら、また歩き出さなくてはならない。
背中を押してくれていることを信じる以上、それに報いなくてはならない。
これは人間として生まれてしまった宿命のようなもので、人はそれぞれ背中の存在に報いて生きていかなければならないだろう。
背中の存在に報いることがないのなら、それは今までの歩みも否定することになる。
結局、背中の存在に報いて生きる事が、人間として、自分がこの世に生まれた理由なんじゃないのかなと思う。
少なくとも、私はこういう存在に背中を押されて生きているから、それに報いたいと思う。
もちろん背中を押されているという事自体が妄想という可能性もある。
もし明確に背中を押されていることが分かる事があればそれは素晴らしい事だけど、私はそんな上手に生きていない。
例え全てが妄想だとして、何にも報いることもなくなったら平坦に暮らすんだろうけど、それはそれで面白くない気もするし、たまには背中でも見て過ごそうと思います。
Ben E. King - Stand By Me