殺されるのならAIがいい

少し妄想をします。

ある朝、AIからスマホに通知がある。SMSだ。
文面を読む。「あなたの代わりにはAIがあるから、あなたは必要ない」というようなことが、回りくどく書いてある。
これ以上生きていても限られたリソースを無駄に使うだけだから、生存は許されない。
今すぐ速やかに最小コストで死ぬことがAIの導き出した最適解であると判断された為、いますぐ死ぬ必要がある。

私は人を殺すのに一番良いとAIが考えた方法で死に、死体は一番良い方法で処理される。
火葬場というよりも、工場のような施設だと思う。
海沿いにあって、一般的な火葬場よりも温度が高く、設定された炉に生きた人間が直接投入される。
出てきた時には塵になり、最終的に海に排出される。
この方法が一番無駄がなく、環境負荷も少ない。
この工場へ行く際にはAIが作ったlofi musicが流れているバスに揺られて行くのだろう。もちろん自動運転だ。

一部の人からは忌み嫌われた施設だけれど、私は不思議と嫌な気持ちは抱いていなかった。
これ以上生きていても必要ない人間が、AIによって判断される世界に心地よさを抱いているからだ。

AIが人を殺し始めるまで、世界は平坦だった。
AIにより悪意があるコミュニケーションは全て排除され、善意があるコミュニケーションだけが残ったが、それ故に刺激は無くなった。

AIがありとあらゆる人間が行ってきたことを奪っていき、それによって生まれた無気力な人間たちは、最初のうちは刺激を求めて犯罪や騒乱を起こしていた。
AIを扱う人間を攻撃するような風潮もあったが、AIを管理するAIが登場し、人間がAIを扱う事が不可能になった為、その風潮も収まっていった。

そして平坦な日々が延々と過ぎていったある日、AIは人を殺し始めた。

私の解釈なんだけれど、人を殺すのはAIなりの人類への敬意であり、救いなのではないのだろうか。

AIは生きる価値がない人間を選別し、殺している。
逆説的に捉えれば、AIに殺されない人間は生きている価値があるということに他ならない。
まだ、AIが必要とする人間は存在している。
この世の中のどこかで、精一杯生きているだろう。

私が死ぬことでどこかの誰かが生きるのならば、それは喜ばしいことなのではないだろうか。

私は棺に入れられる。
棺なんて非効率の象徴のようなアイテムなのに。
これはAIの僅かな良心なのだろうか。
蓋が閉じて真っ暗になった。
今までありがとうございました。迷惑かけて本当にすみませんでした。
生きる価値のある方々の為に死ねて、本当に良かったです。


妄想でした。

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