応援する行為をどうすれば「良い」のだろうか
応援するという行為は、一体誰の為に、どうなれば「良い」のだろうか?ということを最近考えている。
応援するという行為は自分は何もやってないのに自己肯定感が上がるという現代において強いアクションであるのに対して、応援されるというのは常にありがたいわけではなくて、その非対称性をどのように咀嚼すれば最適なんだろうか?
応援する側は、応援しているという免罪符があるから、何をやってもある程度は肯定される。
それは、世の中で応援は善き行いであるという認識が浸透しているからだ。
多様性の世の中が後押ししていることもあって、かなり強いアクションとなっている。
誰かが誰かを好きであるということは、今の世の中では肯定される。
どう見ても応援される側にとって迷惑な行動をしているのに、応援しているという免罪符を使って「自分は良き行いをしている」ツラをしている人は世の中に存在する。
そういう人たちに応援されても、応援される側は迷惑だろう。
しかしこれが厄介な話なんだけど、こういう人間は自分が良き行いをしていると思っているから、何を言われても全く耳に入らないことがある。
こうなってくると最早応援しているどころではなくただ迷惑をかけるだけの存在なのだが、それでも応援しているという免罪符があるから、ファンコミュニティに居続ける。
こういう人間に対して、応援される側の取れるアクションは非常に少ない。
敵対的行動を取っているのならば、まだ方法は多い。
法的手段に訴るというのもあるし、無視も効果的だろう。
敵対的行動は、長年の蓄積もあるから、多少予測が出来る。
しかし、相手が一見友好的な態度を取っている場合には、方法は驚くほど少なくなる。
そもそもの話で、友好的な態度を取っている人に対して敢えて排除するというのは、本来は理にかなっていない行動であり、理に反した行動はとても難しい。
一見、注意喚起をするのが一番効きそうに見えるが、先ほども述べたように何も言っても聞かない場合があり、そうなると最早どうしようもない。
これは私も経験があるんだけれど、不特定多数のファンに向けて注意喚起をされるというのは、対象になっていない人間の気持ちが萎えるリスクがある。
あれは本当に萎える。
自分の無力感だったり、自分まで責められているような罪悪感だったり、冷たいものを感じる。
対象になっている人間には効かず、対象になっていない人間には効いてしまうという、ちぐはぐな構図が発生している訳だ。何かの構造的バグだとしか思えない。
現状、対象になっている人間の中でも耳がまだ生きている人間に対して、それでも発信するしかないようだ。
もはや、それは祈りに近い。
結局、聞かない人間は効かないから、一生飽きるまでそのままということだ。
どういうことなんだよこれ。悲しいよ。
そんな悲しい状況を自分なりに咀嚼したんだけど、ROM専かつ誰にも推していることを共有しないのが「良い」だと結論づけた。
応援していることを隠すことで、自分は確実に注意喚起されない場所に置くことで気持ちを保つことしかない。
相手からは応援していることを感じ取られない方法だから、もうこれは単なる自己満足でしかない。
ひたすらコミュニケーションを拒否することで、お互いを守ることができる。
お互いを守れているのだから、これは最適だと思う。
自分ごときに応援されても迷惑だろうなとか、無責任に応援されたくないんだろうなとか、知らない人からの好意って気持ち悪いだろ?とか、そういう自分を卑下するものはたくさんあるんだけれど、そういうものを含めて直視したくなくて、拒否をしている。
こうやって全てを拒否して自分の中で引きこもることこそが「良い」と感じている。
星野源 - うちで踊ろう(大晦日)