本当は平坦な道を歩んでいるだけ
本当のことを本当のままにすることは案外難しい。
それは、本当のことを本当のまま受け入れるということが難しいという心理的ハードルの話でもあるし、本当のままに受け入れられるということの恐ろしさへの無意識下での抵抗の話でもある。
人生には本当のことなんて必要がない可能性すらある。
どんなに意味がない欺瞞と分かりきっていることだって、それで心が救われるのならば、それは必要になる。
本当のことと必要なものはイコールにはならないし、むしろ本当のことは遠ざけられることの方が多いのかもしれない。
本当のことというのはとにかく地味だし、地道だし、面白くない。
平坦な道に穴ぼこが空いているようなもので、歩いていったところで何かがある訳でもない。
ただ、たまに穴ぼこに足を取られるから、痛いことはある。
そんなのが本当だとしたら、あまりにもつまらない。
「この道には一発逆転のワープがあります。これを使えばゴールに辿り着ける可能性があります」と言う人がいるとする。
だが、そのワープは存在しないか、するにしても何らかのリスクが伴っている。
そもそも、ゴールなんてない道だから、その時点で嘘がある。
だけど、このワープのようなものこそが、希望だったり、幸せだったりするのかもしれない。
私にはどうしてもワープは魅力的には見えない。
それよりも、平坦な道を淡々と歩く人の方が魅力的に感じる。
多分、憧れがあるんだと思う。
何かを継続することだったり、努力することが当たり前に出来ないので。
ただ、平坦な道を淡々と、何なら楽しそうに歩く人って、冷たい人間に見えるよなぁとも思う。
そういう人間は他の人にとって刺激的で魅力的なものに目を向けないし、つまらないといって忌避されるような道を進んでいくし。
何より、感情に左右されない。淡々とするというのは、感情によって挙動を変えない、もしくは変えないように意識しているということだからだ。
そして、そういう人間の発信するコンテンツは誤解されやすいようにも感じる。
特に、そういう人間に質問をするというのは、あまり得策でないように感じる。
質問というのは答えを求めているから質問をする訳だが、世の中には答えがない質問がたくさんある訳で、それに答えを作ろうとするのは、「本当のこと」からはかけ離れている、欺瞞だ。
答えが無い質問にあるのは「意見」だけなのだが、「意見」と「答え」をごっちゃにされてしまうとたまったものではない。
そういう人間の冷たさこそがカリスマ性だったり人徳だったりの源泉のように感じる、私はそういう人間が好きだし、私もそういう人間を目指していきたいというところでもある。
以上、最近読んだ本の書評でした。
何の本読んだかは書きません。
Creepy Nuts - 土産話