見出し画像

「敢えて」楽しむということ

ディベートというのをやったことがある。ディベートとは、簡単に言えば(単に日本語に訳せば)討論のことだ。私がやっていた(やらされていた)ディベートは、広い意味での討論ではなく(テレビで放送されてる討論番組のようなものではなく)競技化されたもので、ある論題(大抵は社会問題など)が与えられ、それについて肯定・否定の立場から議論を戦わせるというもの。そして最終的にそれらの議論を聞いていた審判が、公正な判断のもとでどちらの立場の意見がもっともであるかを判断し、勝敗がつく。この手のディベートはしばしば「ことばのスポーツ」とも称されたりする。

肯定側と否定側という立場で意見を戦わせるディベートがスポーツに例えられているように、スポーツも主として2つの異なる立場――例えば、あるリーグ内のチーム同士であるとか、異なる国や地域同士など――で対立し、争うものである(複数人の中から順位を決める競技ももちろんあるが、いずれにしても、そこでは自分と他の競技者という2つの立場で争っているものと言えるだろう)。スポーツも、そして「ことばのスポーツ」であるディベートも、そこではある種の対立が生じていて、異なる立場同士が争い合っている。

「対立する」「争う」などとわざわざ言ってしまうと物騒に思えるが、実際そこでは確かに争いが行われていて、そのことを例えば現実の戦争や紛争と同じように感じないのは、そうした対立や争いを一種のエンタメとして楽しんでおり、享受しているからだ。あるスポーツにおいて、AチームとBチームが異なるチームだからといって、そのチームの人々が常日頃から互いに対立しているとは考えないし、むしろ、ある一つの競技にかける思いや競技に取り組む姿勢などは共通していることを当事者もそれを見る人たちもおそらく知っている。あるスポーツを楽しむ選手や観客は、敢えて対立し、その対立(対決?)を敢えて楽しんでいる。

ところで私たちはある場面において、対立を敢えて楽しむことができているだろうか?また、こうしたスポーツでさえ、実際敢えて楽しむということができているのだろうか。

そもそもなぜこのような対立や争いを楽しむことができるのか。それを支えているのは、すごく大雑把に言ってしまえば、有限性ではないかと思う。

例えば、場所が有限である(制限されている)こと。ディベートは大概教室で行われるか、大会レベルでも講堂のような場所で行われる。そこでは論題に関するやり取りがそれを審査する人たちにきちんと聞こえるような音響設備などがあったり、主張の根拠となる資料を(スクリーンなどに映して)審判に提示するための設備などが揃っている。つまり、それに適した環境で行われている。スポーツも、スタジアムや体育館、リングやリンクなどそれぞれの競技が行われるのに適した場所を持っていて、それ以外の場所ときちんと仕切られている。車が次々に走り抜けていく首都高でマラソン大会が行われることはないし、誰も卓球台を食卓とはしないだろう。
また、場所の有限性を欠いてしまうとどこであっても競技することが可能になってしまう。ひょんなことからゲリラ的に競技が行われることだってあるかもしれない。ある日突然、通勤で使っている公道でサッカーW杯の試合が行われていたら、さぞ迷惑に違いない。

そしてまた、行動も有限である。これはルールだったり、スポーツマンシップなどと呼ばれているものを想像すればよい気がする。ルールという有限性を欠いてしまうと、競技はいよいよなんでもありになり、選手は試合に勝つためにあらゆる手段を行使できることになってしまう。例えば野球においては、ヒットを重ねたりホームランを打つことが得点源となる。だとしたら守備側は相手チームにヒットを打たせないためにバッターにめがけて豪速球を投げて怪我を負わせて退場させればいいわけである。もちろんルールが無いといことはデッドボールというルールすら存在しないことを意味するので、これによって進塁することすらできない。あえなく全ての打者がデッドボールで倒れ込み、相手チームは泣く泣く降参する他なくなり試合に勝てるというわけだ。狂気である。

だから行動に有限性が必要なのだ。両者が公平に対決できるようにするためにルールがある。どちらか一方が明らかに有利となる条件下で争ったとしたら、有利な条件下に置かれたほうが勝利するのは当然で、それはもはや一方的な力の行使であって、「対決」ではなくなってしまう。

さて、ディベートに少し戻るが、ディベートは煙たがられることが多い。「ディベート」ときいてどういう印象を抱くだろうか。しばしばディベートは議論を戦わせるものであるが、そのことからディベートを学ぶということは、相手の意見をねじ伏せてうまくやり込める方法を学ぶものと誤解されることがある。だがディベートは、恣意的ではなく客観的なエヴィデンスを示しながら論理的に議論することが求められるので、単に詭弁を弄することとはまったく異なるのだ。

ところで、自分と異なる立場の意見に対する向き合い方に関して、「論破」という言葉をやたら耳にするようになった。「論破」という語を例えば「コトバンク」を使って調べてみると、『日本国語大辞典』なるものによれば、それは「議論によって他人の説を破ること」と説明されている。個人的に思うことだが、よく耳にするほうの「論破」には、この「議論によって」が欠けているような気がしなくもない。むしろ、「他人の説を破る」ことのみに主眼が置かれているような気がする。

議論が前提でなければならないのだと思う。そしてその議論は、冒頭で見たようにディベートのような、スポーツ的なものでなくてはならないと思う。
敢えて楽しむものでなくてはならない、と。

議論なしに(殆どの場合、それがあたかも議論しているかのように見えてしまうのだが)、相手をただただ言い負かすことに固執するのは、はっきりいって全然楽しめていない。そこにはなんの有限性もない。だから敢えて楽しむということができていない。

場所がきちんと有限化されているか。等しい重力がかかった場所で議論が交わされているか。ルール無用のなんでもアリな議論でないか。あらゆる議論に適用できる明文化されたルールはないかもしれないが、相手の話に耳を傾けるとか、相手の話を踏まえて自分の意見を述べるとか、議論にまったく関係ない話をしないとか、話を飛躍させないとか、そういう礼節(競技で言えばスポーツマンシップのようなもの)をわきまえているか。これは議論というよりコミュニケーションの基本に関わる問題かもしれないが…。

きちんと整えられた場所や環境を与えられず、全く秩序やルールもない状態で、知らない人から対決することを求められる。これだけでも十分に理不尽だが、さらに対決の場が相手にとって有利な環境であり、さらには相手が一方的にルールを強いてきたとしたらどうだろうか。このようにして行われる議論が楽しめるものであるはずがない。そもそも対立構造が成り立ってすらいないのだとしたら、それは議論でもなんでもないのである。

先程、「論破」には「議論によって」が欠けているような気がすると欠いた。その意味で巷で「論破」と呼ばれているものは、従って全く楽しめるものではないと思う。対戦相手も観客もいない、なんと呼んでいいのかわからない何かでしかない。「論破」を試みる人(あるいは、「論破」の観客)は、「論破」する相手がいなくても勝手になにかおしゃべりをしている。

noteで見かけた、倉下忠憲さんという方の「見えなくなる二項対立」という備忘録としての記事の中で、示唆に富む言葉が述べられていた。(「二項対立」とは、2つの概念が矛盾や対立の関係にあることを表す概念であるが、私のこのnoteではそれをディベートやスポーツなどの対立構造に大雑把に当てはめています…すみません)

「私が正しくて、それ以外はすべて間違っている」という感覚(あるいは何か正しい唯一のものがあり、それ以外はすべて間違っているという感覚)は、そもそも二項対立ですらないのだな、ということ。
たしかにその構図は分析的に見れば二項対立なのだが、当人の意識の中では「二つの項が対立している」ようには捉えられていないのだろう。なぜなら、二項対立において二項は、ある「等しさ」を持つからだ。

「論破」を試みる人の「おしゃべり」を駆動しているのは自分の考えのみが正しいという意識であり、その考えと真っ向から異る考えはその人の意識の中において同じ次元のものとして認識されない。相手の考えはもはや同じ次元に存在しないために同じ重さを持っておらず、軽んじられてしまう。さらには、別の次元のものとして、異質な、空想めいたものにしか捉えられない(異星人が話しているような)。

一方がそのような態度であるときに、果たして議論を戦わせることなどできるのだろうか。

スポーツのような対決の仕方が示していることの一つは、異なる立場同士が出会い、わざとらしく対立を演出し、楽しむことの可能性である。それは、異なる立場の者、つまり他者がいないことには(もっと言えば、他者を認識しないことには)始まらない。そして、この他者に対して自分は一方的に力を行使することはできないし、してはならない。多くのスポーツでは、自分と相手の手番が交代したり、自分が力を及ぼしていると同時に相手も自分に対して力を及ぼしている。対決の行方を自分だけでなく、相手も握っている。従って、自分は相手の力の行使に振り回されることもあり、相手の行動によって自分の行動を変えることを絶えず迫られる。このどうにもならなさはもどかしいが、どちらに転ぶか分からない緊張感が対決する人やそれを見つめる観客を楽しませる。

私たちは、敢えて楽しむということができているだろうか。

倉下さんが書かれていたことは、自分が正しく相手が間違っているという思考では、そもそも対立(二項対立)になっていないということだった。敢えて楽しむための、健全な対立な場の整備がまずできているのだろうか。「論破」という文化から感じる疑問は、およそこんなところである。

さて、一体何を言いたいのかわからない文章になってしまったが、ここまで、「敢えて」楽しむということを繰り返し述べてきた。その意味では、「論破」は真面目すぎるのである。他者の意見を破るというただそのことに執着するという意味で真面目すぎるのだ。

では、不真面目な態度で真面目な議論をするのはどうだろうか。「真剣に議論しているのに楽しもうだなんて不真面目だ!」と思うだろうか。いや、至って真剣である。いかにも真面目そうな顔で不真面目なことをしている態度に対して真剣に茶々を入れたのである。茶々を入れることは不真面目な態度かもしれないが、それが敢えて楽しんでみせるということだ。真剣に向き合うために、敢えて真っ向から対立するものを想像したのだ。

あとは、環境や行動がしっかりと有限であれば、あるいは暴力の行使へと向かわせない配慮と気遣いが行き届きさえすれば、敢えて楽しむための準備は整う。その相手は、敢えて楽しむことに乗っかってくれるだろうか。一方はすでに敢えて対立しようとし、すでに敢えて楽しんでいる。

敢えて対立し、それを敢えて楽しんで見せること。対立のないところに討論もなにもない。論破なるものがあるとすれば、それは「敢えて楽しむ」ことが可能な対立の先にあるのではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?