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先日コンプレックスの話をnoteに書きながらふと気付いたのですが、私は「カワイイ」にコンプレックスを抱えているようです。

よく耳にするコンプレックスは欠点とか弱点などの意味がありますが、今回は「劣等感」を含んだコンプレックスの話です。

卑屈で根暗かもしれない内容だからタイトルだってひっくり返してやりました。
見にくいですね。愛さなくてもいいんだよ。




私は小学生の頃、少年のような少女でした。少女漫画はぜんぜん読まず、少年漫画が好きでした。兄のおさがりばかりを好んで着たがり、兄は家に呼んだ自分の友達に「これ弟」と私を紹介して、友達を混乱させるのが好きでした。

ひとつふたつではない歳の差がある兄は私におおむね優しく、そんな兄のおさがりはいつもオーバーサイズで多少汚したとしても怒られることはなかったし、ダボっとした服を着ていると、繰り返し何度も見ていた大好きなドラマの俳優さんみたいで、カッコいいと思っていたのです。

でも、もっと小さい頃のアルバムを見返すと、女の子らしい格好をしている写真が多いです。
フリルの衿がついた黒のワンピースがお姫様みたいで好きだったのを覚えてます。
小さいころから、くるくる回ってスカートをひるがえすのが好きでした。


そんなスカート大好きでディズニープリンセスも大好きだった幼い私が明確にスカートを履かなくなり、兄のお下がりを好んで着るようになった原因は、いま思えばささやかなことでした。


小学2年生の頃に、ジャイアンにそっくりな女の子(見た目も中身も)から、「ぐみちゃんって、スカート似合わない!」と言われて、ショックだったんです。

「私以外に遊んでくれる子もいないようなこんなジャイアンみたいな女の子に似合わないって言われるなんて、私ってそんなに似合ってないんだ!」と絶望し、スカートを履かなくなったのです。今思えばその脆さも可愛いですね。

いまみたいに「自分が好きならTPO弁えてれば別に何着ててもいいっしょ✌️」って言ってくれるようなギャルを心に宿す前の私は、世界の中心が自分にあったくせに打たれ弱くて、優しいばかりの繊細な子でした。

このエピソード、何が言いたいかと言うと
「友達がいないジャイアンと遊んであげていた心優しきのび太だった私の性格の良さ」ではなく、
「傷つけられたとはいえ、当時を振り返り嫌な事を言ってきた相手をディスるというなんの解決にもならないことをしてしまう私の性格の悪さ」でもなく、
「振り返れば何気ないような一言によって私は"可愛い"との縁を一度断たれた」ということです。

スカートを履かなくなったのは小学2年生を含む、6年生までの5年間。子どもの頃の出来事って、どんなにささやかでも人格形成に影響を及ぼすのには充分だと思います。

子どもたちは乾く前のセメントみたいなもの。
何かが落ちてくれば、必ず跡が残る
-ハイム・ギノット (児童心理学者)

家族で早くから遠出をするときにだけ食べられた朝マックは、食べるとその記憶を思い出せて幸せだし、しょっちゅう連れて行ってもらった美術館や博物館は未だに好きでよく行くし、体調を崩した時に食べる桃缶はどんな薬よりも効くと思ってしまうし、兄が強くてどんなにハンデをもらっても負かされていた大乱闘スマッシュブラザーズをはじめとする相手と戦う系のゲームは、いまだに苦手です。



私の母はとても器用で料理もお裁縫も絵も上手な人で、成長して着れなくなったのに私が捨てたがらないワンピースをスカートに縫い直してくれたり、お気に入りのシャツをうっかり汚して泣きついては落ちないシミに柄を足して隠してくれたりしてました。

母は兄と私それぞれに似合う服を買ってくれたし、そんなお洋服のことも、一緒に買い物に行っては「ぐみちゃんはどれが好きかな〜?」って楽しそうに選んでくれる母のことも大好きでした。

そんな母の話を私は彼女にしていたと思います。自慢しているように聞こえたかもしれません。(事実、母は私の自慢です)

母が似合うと選んでくれた服が似合わなかったことはきっとなかったと信じたいので、私の何かが彼女のカンに障ったから出た言葉だったのかもしれない。もしくは、ただ虫の居所が悪かっただけかもしれないし、彼女から見れば本当に似合っていなかったのかもしれません。
彼女は私のひとつの呪いと心のセメントに跡を残し、ほどなく転校していきました。


「スカート似合わない」という言葉をずっと覚えていたわけではないけれど、元々活発でよく走りまわって遊んでいた私はスカートを履かなかった5年間でどんどん髪も短くなり、可愛いものを避けながら過ごし、いつしか自分自身もスカート似合わないな、と思うようになっていました。

好きな男の子に告白されて嬉しかったし、自分自身が女であることへの違和感はないけど、胸が膨らんできたり、ブラジャーをつけるようになったことへ、「私こんな男の子みたいなのに変なの」と違和感があったのを覚えています。

小学校の卒業式でも、中学生になって制服を着るのも、すごく嫌でした。ずっと避けていたスカートを履くとき、女の子なのに、女装を強いられているような気になりました。男の子の友達から「ぐみがスカート履いてる!女みたいだ!」って指をさされて驚かれたの、よく覚えてます。

それでも制服を着るのに慣れてきた頃、恋人ができたりメイクをしたりしながら、私服でもまたスカートを履くようになりました。

久しぶりの私服でのスカートはなんだかそわそわしたけれど、鏡の中の私はそう悪くはなかったと思います。少なくとも、心無い言葉を投げられていい人なんていないのですから。

友達や恋人と休日に遊ぶ度「可愛いね!」と言ってもらえて、スカートへの抵抗は徐々に無くなりました。
私は着たいものを着ていいんだって思えたの、嬉しかったなぁ。

高校生の時、私に「スカート似合わない」と言った子を家の近所で見かけました。ひとりでコンビニの前でアイスを食べていた彼女は小学生のときから全体的に大きくなっただけで、人を睨むような目つきも眉間の皺もへの字の口も何も変わってなくてすぐわかりました。

私は大好きな友達とお気に入りの服をきて、メイクもばっちりで最強の武装で「なんだ、あの子より私の方がスカート似合うし可愛いな。」と思いました。(性格悪いですね。でも、それくらいは思わせて欲しいくらい、スカート履けなかったんです。)


中学、高校、大学、社会人、と、成長に合わせて自分の好みがはっきりしてきて、ささやかながらにお勉強とかもして、いま「好き」と「似合う」がそれなりに自分の板についてきました。

私の"好き"は元々とても広いです。
ただ、その中で私に"似合う"はごく一部。

たとえばコーラルピンクや花柄、オレンジのリップやチョコレートブラウンのヘアカラー、可愛いなぁ素敵だなぁと思っても、私のための可愛いではないのです。

私を引き立たせてくれるのは、ヴィランズのようなはっきりとした黒や赤。無地や幾何学、アニマル柄の方が得意です。

はんなり優しく可愛いものはいいなぁと思うけど、私のものじゃないと思うから手に取れません。

"いちご味"が最たる例です。


マリオパーティでピーチ姫ではなくクッパを選ぶのはもう性格もあるのでしょうが、わかりやすい可愛いものを選ぶのにとても勇気が必要です。

どう言えば良いのだろう、伝わるでしょうか。
「可愛いものを選んだ自分」を見られたくない気持ちや、「可愛いの選んでるな」って思われるのが恥ずかしかったり、「私に似合わない可愛さだな」とかね、思ってしまうのですよ。

子どもの頃の呪いはもう解けたけど、心のセメントに落ちた跡が、そのまま残っているでしょうか。

バッグや靴なんかはユニセックスのものが好きだし、着る物もシンプルなものが好き。

わかりやすい可愛いじゃなくて、理由づけして可愛くしたい気持ちもあります。
物事の多くの意味や由縁を愛おしく思う私は、心の中で今日のテーマを決めながらメイクや洋服を選ぶのです。

誰かが誰かのために作った可愛いじゃなく、誰にも言わない私だけのストーリーが、私のためだけの可愛いになるの。

これから先はモンスターの話なので暗いし読まなくていいです。
醜いですね。愛さなくてもいいんだよ。

可愛いは呪いだ。

可愛いは宗教だ。

生まれてから今まで、身内以外にも可愛いと言ってもらえることはあったし、自分でもまぁ吐くほどブスではないと思ってるし、メイクやカラコンの発色を自撮りで記録して見返してもぶっ倒れない程度には自分の顔に愛着もあります。


あぁ、愛着がある、と言う表現、しっくりきます。


ブサイク芸人と呼ばれる人たちが自分ではそれに気付いていないことはおかしいことでもなんでもないのです。生まれてから毎朝見てきた顔だから、見慣れていて当然だもの。

私が自分を「可愛い」というのは、あくまで"当社比"です。多くの人と比較した時に上位に食い込めると思えるほどおめでたくも、自惚れてもいません。


そもそも、美しい精神は顔に必ず現れます。
年齢を重ねれば重ねるほど顕著で、意地悪そうな人は意地悪そうに、優しい人は優しい顔に、怒りっぽい人は怒りんぼの顔になっていくんです。

私は他者に対して、たかが面の皮1枚よりも、思想や精神や価値観や綴る言葉の美しさを感じたいと思いながら生きていますが、こと自分自身に関してはルッキズムを無視することができません。

誰かと比較したときに、自分の可愛くないところが強調されて見えます。うなされます。嫌気がさします。こうなりたい、ああなりたいに、溺れます。醜い、醜い、醜い。


よく褒めてもらえる目や唇や肌の白さ、呼ばれると嬉しい可愛い名前は、生まれてくる時に父と母からの貰った初めての贈り物。
私を構成する大事な全てです。
褒められたら、もちろん嬉しい。
とっても、最高に、嬉しいです。


でも、それらは生まれ持ったものだから、努力して得たものではないのです。たまたま持っていただけ。努力してる人の方がよっぽど可愛い。


私は狂った自尊心を抱えながら、自分の余白を呪ってしまう、可愛くなりたいモンスター。


私が努力で得た可愛いって何かあるのかな。何もないんじゃないかな。
可愛くなりたいと言いながら、そのための大した努力はしてないな。ありのままの私でも愛してくれる人たちがたくさんいるから、図々しくその優しさに甘えているな。

お化粧は好きで楽しんでやってるから努力とは思えない。似合うを学んだことは我が為だし、それをどんなに生かしていても、それが私の可愛いにはならない気がしてしまうのです。



私はユニークで明るくて性格もいいです。
家族や友人に恵まれ、烏滸がましくも愛されてのびのび生きてきた自覚があります。

私は自分の性格の良さ(開き直れるところも含め)が好きだけど、自分に容姿には対してことさら自信がないから、恋愛的な意味で好きだと言われるとびっくりします。

もちろんお付き合いするのって容姿だけが判断基準じゃないし、お付き合いした人数や元彼の名前を忘れるくらいには交際経験もあるけれど(これは私が薄情なのかも)、頻繁に伝え合っていた好意は「友達として」だと思っていた、と言うことが圧倒的に多いです。(自分が相手の恋愛対象に入っていないと思っている分、私も恋愛対象として見ていないから、告白されるとびっくりするのです。伝わる?)

たとえば恋人ができたとして、身体の関係があったり、何回か2人で遊んでた人に「恋人ができたからもう2人では会えないよ!」と言ったら、「俺は彼氏じゃなかったの?」とか「ぐみはいずれ親に紹介したいと思ってたのに」とか言われて驚いたことが一度や二度じゃないくらいに、自分への好意に疎いです。(もちろん、残念ぶった嘘かもしれませんけどね)


自分に向けられた好意には疎いけど、私が大好きな人たちには私からの好意はめちゃくちゃ伝わっていると思います。前にもnoteで書きましたね。

大好きな人からの私へのメッセージをこっそり自慢しちゃう。
大好きが伝わっているのは私にとってすごく嬉しいことです。


好意は目に見えないし、いつ死ぬかわからない。

「あなたの味方だよ」と言葉で抱きしめたくて、寂しいときに思い出してほしくて、いつか言えなくなる日がきた時に後悔することがないように、あなたのことが大好きだよと伝えていたいです。態度で示したいです。

でも、だだ漏れすぎる好意に、怖がられてないかなってたまに不安です。怖かったら言ってくださいね。

上でも書いたように、自分が恋愛対象として見られていないという前提のもと多くの人と交流してわいわいきゃっきゃしてるので、楽しく健やかな好意しかないですよ。

昔付き合っていた人の影響か、依存や嫉妬や独占欲や束縛に辟易しているので、そういう気持ちを人に向けるのも苦手です。というより、したくない。

そもそもあまりやきもちを妬かないというのもあるのですが、恋人関係になる人なら全面的に信頼をしているので、不誠実なことはしないだろう、と思うのです。性善説ですね。例え裏切られたとしても、それは私が見る目がなかっただけのこと。傷つき泣きながら見る目を養い、最期に笑って死ぬの。



なんだか何を書きたかったのかよくわからなくなりました。

私はぐっちゃぐちゃのコンプレックスと醜い醜い可愛くなりたいモンスターを吐露してスッキリしましたが、不快じゃなかったらいいな。最後まで読んでくれてありがとうございます。
あなたのそういうところが好きなんです。大好き。



美しい魂を持った人になりたいな。
豊かな心で人を愛せる人でありたいな。
私の好意が嫌な質量を抱えずにあなたが疲れた時に寄りかかれる位置にあるといいな。

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