お湯の温度と嫌われること。
「紅茶と珈琲と緑茶では、美味しく淹れる温度が違うんだよ」
とある日、後輩にそんな話をしたときに返ってきた言葉は、
「知らなかったです、教えてもらったことなくて。」
"美味しいお茶を飲んでもらおうとか、美味しいお茶を飲もうとか思えば、自然と身につくものだよ"
と言いかけて、やめました。
そんなつもりはなくても、なんだかトゲのある言い方な気がして。
「なかなか知る機会ないよねぇ。ちゃんと急須を使ってお茶を淹れてると、淹れてる時間も含めて喫する贅沢って感じで、私は好きなんだぁ。」
「"きっする"ってなんですか」
「えっとね、喫茶店の喫の字なんだけど、飲んだり食べたりすることで、より味わう、みたいなイメージかな」
会社や業界の中ではまだまだひよっこ、目が開きたての赤ちゃんみたいな若手枠の私ですが、烏滸がましくも、自分より年下はもちろん、年上の後輩に教えることも多い立場で、こういうやりとりを何度かしています。お茶を淹れるのが仕事ではないけれど、100度の熱湯を緑茶が入った急須に直接注ぐ人は、意外と多い。
1人1台スマホを持っていて、調べればなんでも出てくる時代です。
私は一体いつ、お湯の温度の違いや、喫するなんて言葉を覚えたのだろうと思い返すけれど、答えは出ません。
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自分の当たり前は当たり前じゃないとしみじみ感じます。
先日Twitterで知り合って仲良くしてくれているお友達が、スペース(おしゃべりできる機能)で、
「ぐみちゃんは色んなことを知っているよね」
「私、ぐみばぁの知恵袋だ!って思ってる」
と話していておもしろく、嬉しかったです。
(ぐみばぁの響き可愛いですね。そう呼ばれるばぁちゃんになりたい)
私は、私が好きなことだけしか知らないし、興味があることだけしか調べません。
でもきっと、みんなそうなのだと思います。
お茶を淹れる温度なんて、興味がなければ調べないでしょう。
必要な時に、知ってる私が後輩に教えれば良いのです。
知らないことは罪ではないですし、何かを知ることや学ぶことに、遅すぎるなんてないのだから。
どんな事柄にも理由や意味があります。私はそれを知るのが好き。
ふと気になったことは、親指をスイスイっと動かしてすぐ調べます。便利で良い時代に生まれて幸せです。
気になることを調べる、という習慣は学生時代からですが、知らないことを知るのが「楽しい」と明確に感じたのは、就職してからだったように思います。
学生時代、とくに制服を着ていた頃は、座っているだけで知識や学びを享受できることを、ありがたいとは気付けませんでした。
健やかであること、友達と過ごす日々の尊さばかりを、ありがたがっていた気がします。
今もしも当時に戻ることがあったら、きっと私は授業中に寝れないな。
私たちの学びのために自分の時間を使ってくれる先生へ、誠実な気持ちで椅子に座っていたいです。
ある程度の専門知識が必要な会社の説明会で「未経験でも大丈夫ですよ」という言葉を鵜呑みにし、知識がほぼゼロのまま興味だけで面接を受けて入社したら、日々の仕事のすべてが学びと感動の連続でした。
興味があったから感動があったのだと思いますが、知れば知るほど奥が深く、もっと知りたい!と、気になったことを調べたり本を買ったり積極的に学ぶ姿勢でいられたのは、知る喜びの実感があったからです。
「知らないことを知ることは、こんなに楽しい!」
知る喜びは、もしかしたら1つ1つは薄いのかもしれませんね。だから学生時代には気付けなかったのかな。でも積み重なることで、気がつくとミルフィーユのように育って、美味しくなるのです。
お弁当の底のくぼみやハンバーグの下にあるパスタは単なるかさましではないし、おせちを作ることもなんの具材を入れるのかにもすべて意味があるのです。
特に知らなくても生きていけることが多いです。
それでもそれは、可愛いあの子が使っているファンデーションやアイシャドウ、好きな人が使っているシャンプーや今日食べた晩ご飯を、私だけが知っているような愉悦に似ています。
なんでもかんでも、知ったことを披露したいわけではないです。
肌を極力出さなくても着物姿に色気があるように、見せびらかすことばかりがセクシーなわけではないから。
「賢者は、話すべきことがあるから口を開く。愚者は、話さずにはいられないから口を開く。」という言葉を知ってから、必要な知識は必要なときに取り出せるほうが余裕があってかっこいいなと思います。
ハロウィンがどんなイベントなのか、月食がなぜ赤く見えるのか、冬に星が綺麗に見えるのはなぜなのか、メリークリスマスではなくハッピーホリデーと書きたい手紙とか、私がニヤニヤするために知っていたいのです。
「そのことを知っている私をみて」なんて、「若い頃やんちゃでさぁ」って得意げに武勇伝を語るのと同じように野暮天ですもんね。
机の下でこっそりと手を繋ぐように、こっそりと私の中の引き出しに知識が入ることがすでに喜びです。
私が好きな本のセリフの一つに、
「世界にはぼくらが知っていることの100万倍もの知らないことがあるんだって」
というものがあります。初めて読んだ時の衝撃たるや。世界にはまだまだ夢が溢れているのでしょうね。
知る喜びは、これからもたくさんありそうです。
物事だけではなく、人との出会いも喜びです。
仲良くしてくれるあなたのことをもっと知りたいのは、好きだからですよ。
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琴線に触れる、は、なんと美しい言葉なんでしょうね。
興味や関心という心の震えが、知識の引き出しを埋める音を鳴らすのです。
まだ出勤中におでこに汗をかくような暑い季節、ふとのぞいた本屋さんで出会った絵本、まるで隕石の脳天直下!心臓のビックバン!心どころか魂が震えました。
それほど好きな絵に出会ってしまったのです。衝撃の一目惚れ。ある意味事故でした。
あまりにときめいて、絵本を抱えてレジまで小走りで向かったのを覚えています。
そんな素敵な作家さんの展覧会へ誘っていただいて、先日いってきました。
ため息が出るほど繊細な絵。なんて綺麗なんだろう。
1枚1枚、描かれたキャラクターや動物に、命とストーリーを感じます。私が次の絵を見ている間に、もしかしたら彼らはあくびをしたり、伸びをしているかもしれない。
細部まで緻密に絵を書いている人は、人の心も細部まで見える人なのでしょうか。
自分自身のほんの少しの機微だって、見逃さずに昇華ができるのでしょうか。
表現の方法に絵を選んだのはいつからなのでしょうか。
描かずにはいられない夜もあったのでしょうか。
私はその作家さんの、可愛いけれどほんのりこわい、とても小さな部分まで緻密に描くところに惚れたのですが、いざ展覧会を見てみたら、私の心に刺さるのは、思考の余白を残した絵ばかりでした。あとは黒い闇の濃さと深さ。
沢山並んだ可愛い絵の中にふと潜む、不穏な気配のする絵。モノトーンの陰影、白が、光が、希望が、より浮かび上がって見える、効果的な影の入れ方。
「ぽつん」と、世界から切り取られたような寂しさ。
細部に目が行く人だから、こんな寂しい絵も描けるのでしょうか。
孤独とか不安とか寂しさとか、決して明るいとは言えないようなテイストのイラストも、心の隙間に優しく沁みるようでした。あの空間の呼吸ひとつ、かけられた布のドレープひとつさえ作品でした。
1枚の中にぎゅっと物語が詰まっていました。
黒白灰だけで、浮かび上がる彫刻の立体感、うすら怖いシュールさ、「鍵盤の廊下の途中のどちらかの扉の鍵穴の」、「旅の終わりの銀河の果ての美術館の」、美しさ。
「芸術というものは、心病む者には救いになり、心健やかな者には問題提起になる」
という言葉も、私の好きな本(こちらは漫画ですが)のセリフのひとつです。
詳しくないけれど、本も音楽も彫刻も建築も絵画も好きです。
私はそこに、救いを感じていることの方が多いです。
健やかに生きていたいし、どちらかなら、健やかな側の人だと思います。
毎晩枕を濡らすようなこともなく、蛇口をひねればお湯も出るし、遠方に住む親から誕生日プレゼントも届きました。
だけどいつも120%で生きていけるわけではないのです。そんな私に元気をくれるのは、芸術です。音楽です。文学です。絵画です。表現せずにはいられなかった一滴が、誰かの思想を色濃く宿したものが、エネルギーが、触れることで魂を揺さぶるのです。それがパワーをくれるのです。
私が仲良くしてもらっている人たち、みんな美しいです。
見た目の美しさだけではなく、魂が美しいです。
心配りができる人が多いし、穏やかで優しく、故意に誰かを傷付けたり悪意を持って誰かを踏み躙ることなどしません。
一人ひとりの価値観がアートです。そこに触れることが、私にとっとの救いです。
私もそうありたいと、美しく生きていたいと思わせてくれる出会いが沢山あります。
いままでも、そしてきっとこれからも。
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先日こんなツイートをしました。
数日後に、相互の女の子が「私は嫌われる方が苦手」と言ってました。
私は彼女の言葉や思想が大好きで大好きで、彼女と似ている部分があったり、全く違う部分があるところが喜びなのですが、私は改めて、彼女は優しい人だな、と思いました。
私のことを嫌いな人はもちろんいると思いますが、私は私のことを嫌いな人に心を割くほどできた人間ではありません。
私って善人なので、そんな私のこと嫌いだなんて変わってんね!って気持ちも、厚かましく、ちょっとあります。
ただ、私自身「なんとなく苦手」な人がいる以上、私をなんとなく苦手な人もいるだろうし、明確な理由があって嫌いな人もいると思います。
できるだけ悪意を持たずに人と接していたいと思います。優しくいたいです。
それでも溢れた私の何かがその人の気に障り嫌われたのなら、ごめんなさいの気持ちと共に、そっと離れます。
100人中100人から愛されたいとは思うけれど、そんな賢者はいないし、いてもきっとそんな人は面白くないと思うんです。だから無理はしないようにしようと思っています。全員に愛されるなんて無理だ。そこの割り切りをしてから、だいぶ生きやすいです。
私のことを好きな人とだけ仲良くしたいとは思いません。
自分に甘い世界は居心地がいいでしょう。だけど、都合の良い人だけに囲まれていては成長が止まるし思考も死ぬと思います。
私は、私が好きな人たちが、その人のことを嫌いな人のために落ち込んでいると悲しいです。
「私がいるよ」と肩を抱きたいし、なんなら肩に乗せたい。許されるなら肩車して走り回りたいです。がんばります。
IKEAのネジがニトリの家具に合わないように、人間だって、誰しも合う合わないがあります。
何にでも使えるように見える電池でさえ、単三と単四を間違えたら使えないのです。
多くの人を好きでいたいけれど、苦手な人もいます。
だけど、私は苦手になった人のことを、いつまでも覚えていることはありません。きっと私を嫌いになった人も、嫌いな私のことなんていつまで経っても覚えていることはないでしょう。きっと嫌いな私のことなんて忘れて健やかな毎日を送っているでしょうから。
傷付けて嫌われたとしても、傷付けてしまったという事実は消せないでしょう。
誰の事も傷つけたくはないけれど、100人に愛されるように、きっとそれも無理な話です。
私は天使でも仏でもなく、後悔と自分可愛さを抱えている愚かな動物なのだから。
意図せずとはいえ誰かを傷つけていることへの開き直りではなく、「お互い様」の気持ちです。
私もきっと誰かを傷つけているから、傷つけられた時には赦したい。それが愛だと思うから。私はそういう愛の形を抱えていたい。
私のことを嫌いな人を思い出して悲しむよりも、私を好きだと言ってくれる人を大事にしていたいです。
それがこの世でたった1人しかいなかったとしても。
私のことが嫌いな人は、私に幸福を望まれても嬉しくないでしょう。
だから、私を好きだと言ってくれるあなたの幸福を祈りたいのです。
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私は薄情な人間なのでしょう。
興味がないことには指は動かないし、脳も心も使えません。
好きな人にしか心をあげられません。
その代わり大好きな人には、来世まで大好きの約束をしたい。
情に厚いところもあるのですよ。
私が手のひらが厚いのがコンプレックスなのですが、「素敵な手だね。手が厚い人は情にも厚いんだよ」と言って頂けたことがあります。
(それだけで情に厚い人間だとはアピールはできないでしょうが)
そしてご存知の通り、好きなものはいくらでも語れます。これも情の厚さに入るでしょうか。
あなたの好きなところも語れますよ。
例えばほら、こうして5,400字を超える私のnoteを読んでくれるマメさが好きです。
いつも、ありがとうございます。
あなたが見つけてくれるから、今日も私に価値が生まれます。
ありがとうございます。今日も大好きです。
今夜も明日も、良い夜と、良い朝を。
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