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桜ばかりが儚く美しいわけではない。

今日で3月が終わりますね。
3月末って、12月末と似た気配がします。
今日の私が寝て起きると迎える、今朝と変わらない朝のはずなのに、4月からはなにかが生まれ変わるような、新しい気持ちになってしまいます。

なんだか今年は特に3月の寒暖差が激しかった気がしますね。季節の変わり目ですし、朝晩はところによりまだ冷えるでしょうから、くれぐれもお身体ご自愛くださいね。

私ったら、あなたの体調を慮るばかりに、出だしから文末みたいな雰囲気の挨拶をしてしまいました。
今回も、わざわざこちらまで飛んで頂いてありがとうございます。読んでいただけるの嬉しいです。

1ヶ月前の服装から比べると、もうすっかり春模様です。
春の気配を感じる要因のひとつ、TLによく桜の画像を見かけるようになりました。
みなさんの街の桜も綺麗ですね。一緒にお花見してる気分になるのでうきうきします。

明確に花を"好きだ"と思い始めたのは、実は就職してからでした。
子どもの頃からきれいだなーとは思っていたけど、あくまで目があったら会釈する、顔を知っているご近所さんくらいの距離感。
そんな私がまさか参列した結婚式のテーブルのお花を率先してもらったり、自分で花を買って家に飾ったりする日が来るなんて、子どもの頃は思ってもみなかったです。
今では花は、たまに家に遊びに来て私の心を潤してくれる麗しき隣人。

そんな私は、去年と同じ道に咲いた桜に今年もカメラを向けました。きっと来年も再来年も、桜を見つける度に同じことをするのでしょう。

写真を撮るのが好きです。
だけど、いいカメラを持っているわけでも、語れるほどの知識もありません。

なので「写真を撮るのが好き」とあまり積極的に人に言ったことはありません。(言わないけど一緒に遊ぶとすごい量の写真を撮るので、仲の良い人にはたぶんバレている)

「写真好き」を名乗ることへ若干の対抗があります。お金をかけ、時間を割いて学び、本気にならないと、好きだと言ってはいけない気がしてしまうのです。

そんなことはない、と言ってくれる人もいるでしょう。
けれど、もっと真摯に向き合っている人から「その程度で、好き?」と思われそうで怖いのです。

各々がそれぞれの熱量で好きであればいいし、好きという気持ちは比べるようなものではないと、頭ではわかっていても、好きな気持ちを否定されるのは想像しただけで悲しい。


なので私は「好きなもの」はたくさんあるけれど、「これが趣味」といえるものはありません。そう、私は肝の小さいおばけ。

自分が無趣味だからこそ、趣味がある人や特技がある人、「これが好き」と大きな声で言える人や、夢中になれるものがある人に羨望の眼差しを向けてしまいます。

こだわりの強さや好きなものは、その人の作る世界観や思想につながると思っています。確固たる芯がある人は美しいです。尊敬します。

制服を着ている頃、親にカメラを買ってもらったことがありました。お守りのように持ち歩いては、世界が私の手の中にあるような感覚になりました。

台風前日の畏怖すら覚える美しい空、放課後に食べたかき氷、私のために敷かれた美しいイチョウが作る金の絨毯、鼻を赤くした友達の吐く息と後頭部を染める白、恋人と乗った観覧車から覗き込んだ、よく知った街のジオラマ。

こだわれば楽しい世界なのは重々承知の上だけど(多分ハマるのは目に見える)、今のところ私はスマートフォンで撮影することでも充分だな、という考えに至ってます。

"いい写真を撮りたい"から写真を撮るのが好きというより、私にとって写真を撮ることは"逃したく無い今この瞬間の切り取り"です。
知らない誰かに見せることよりも、自分のために残すことにフォーカスを当てています。

二度と戻らない今日、いま、この時、「あぁ!」と心を揺さぶられた瞬間を、いつかの私にも見せてあげたい。だから、すぐ取り出してワンタップで切り抜いて、ポケットに収まるこのスマートフォンがちょうどいいのです。(あと、バッグ大きさに合わせて物を詰める癖があるので、さっと取り出せるところにカメラを持ち運ぶスペースは私の生活にはなさそう、という理由も大きい)

みなさんがスマホにどれくらいの枚数の写真を保存しているのかしらないけれど、私のカメラロールには62,000枚のデータがぎゅっと詰まってます。

これを言うと大体びっくりされる(なんならちょっと引かれる)し、そんなにたくさんあって見返すの?って言わます。
が、私は定期的に見返しているし、データの整理も定期的にしているのです。

(2022/03/31現在。62,000越えてました。えへ。)

よく重宝されるのは友達の結婚式や誕生日。
学生時代から、何人に写真がたっぷり詰まった色紙やアルバムを作り、メッセージを書いたか数えきれません。

旅行や遊びに出掛けた時はだいたい私がやたらめったら写真を撮るので「あとで共有してもらおーっと!」とみんなは楽しい時間に夢中になってくれます。私はそれが嬉しくて、そんな楽しむ友達の写真をたくさん残すのです。

こんなに可愛く笑う彼女たち自身を、彼女たちはその瞬間見ることは叶わないのだから。私から見た可愛いあなたを教えてあげたい。何年か経って、この時楽しかったねってまた笑いたい。

私は手帳を書くのも好きなので、楽しかった日の写真を印刷して手帳に貼ったり、あとで見返したりもします。
楽しかった思い出が詰まった手帳が、私の宝物になるのです。1年かけて育てる、私の愛おしいお守りです。

各々が可愛い顔をして準備万端な「せーの」で撮った集合写真も好きだけど、不意に訪れた瞬間を残すのがとっても大好き。

同じ方向へ歩いていく後ろ姿、垂れたソフトクリームが顎についた瞬間、そこへティッシュを差し出しながら爆笑する細い目や、車内で無防備に口を開けている寝顔、顔より大きなグラスのパフェを崩さないように取り分ける試験中よりも真剣なまなざしや、小さな手でスマホを見ながら案内してくれる、右斜め上からみた深いチョコレートのような髪。

遠くで眠る猫、近付いたら起きて、こちらを見ながら後退りしている様子の連写や、顔の半分が口になるような大きなあくび、1分後には変わってしまう夕焼けの美しさ、月明かりに照らされた波のきらめき、木漏れ日の隙間から見上げる空の青さ。あの夏の影の、なんと色の深いこと!

私の周りの人はみんな可愛く素敵で愛おしいし、この世界はどうにもこうにも美しいので、残しておきたい瞬間がありすぎるのです。

全ての瞬間を覚えていたいのに、私のちっちぇ脳みそでは覚えきれないので、こうしてレンズを向ける日々が重なっていくのです。

昨日何気なく遡っていたのは、5年前の8月。
友達と6人で行ったドライブで、丸一日朝から晩まで遊んだ日。誰もマスクなんかしてなくて、みんなの大きな笑顔がそのまま残っていて、私がその時好きだったリップの赤が、美味しかった海鮮を頬張っている。懐かしいなぁ、また行きたいなぁ、マスクはいつになったらいらなくなるのかなぁと、指をスクロールさせていました。

お昼すぎ移動中の車、緑の深い山中。
名前もついていないようなささやかな滝があり、停車してみんなですこしその辺を散策した記憶をなぞる。川の流れる音が大きくて、車を停めた近くにあった折れた木が苔むしている。

私が遊んだり悩んだり寝たり起きたりする日常を過ごしている間も、この緑や水はここで静かに息をしているんだな、と密かに壮大な気持ちで深呼吸をした気持ちよさを、写真に目を通しながら思い出す。

しゃがんで滝にカメラを向ける後輩の後ろ姿、パンツが見えそうになるくらい無防備に晒された腰や、滝の流れを覗き込む友達を後ろから突き落とそうとしている悪い顔を何枚か撮った中、そこで見つけた花がなんだかとても気になって写真に撮りました。

たんぽぽに似ている、と思ったけど、私の知ってるたんぽぽとは違うし、蕾の形が独特で、風に揺れるその姿がなんだかとてもかわいかったのです。


その花の名前を知らぬまま、気が付けば5年経っていました。
ふと思いつき、昨夜Googleの画像検索にかけてみました。

画像検索って便利だなぁ、前もウキツリボクやナンキンハゼを教えてもらったなぁ、と思いながら、検索結果にたんぽぽと並んで、かわいこちゃんの名前が出ました。蕾や開いた姿の特徴から間違いなさそうです。初めて聞く名前でした。
気になって花言葉も調べたら、名前からは想像つかない素敵な花言葉を抱えているじゃありませんか。

しかも植物にとって厳しい環境で定着し、数年ほど経ち元の植生に戻ると消えるパターンを繰り返す、先駆植物という種類らしい。ふむふむ、あんな可愛らしい花を咲かせておいて強い花だとは。ますます好きになってしまうな、とにやり。そして、はっとする。

もしかして、私が今日うんと好きになった"この花"は、いまはもうあそこに咲いていないのだろうか。
いや、もし咲いていたとしても、あの日咲いていたこの花は、もう私のカメラロールの中にしかいないのかもしれない。

どんなに私がこの5年前のことを昨日のように思い出して愛おしく思ったとしても、移りゆく季節は確かにあったのだ。

当たり前じゃないか。
だってそこに写っている私も友達も、今より5年分若いのだから。
時間は私にも、花にも、森にも、滝にも、平等に流れている。

あぁ、ほら、また私は忘れてかけていた。
一瞬一瞬の尊さを。
戻らないから美しい、あの瞬間の愛おしさを。

花が咲いたことを喜ぶ人は、花が散った時に同じだけ悲しむ、という言葉が、心に残っています。


人知れず散ったかもしれない花を悼む夜。

命も花だ。
枯れることはないのに、振り返れば散ってしまう花だ。

咲いている時間が桜より長いから、必要な言葉も不必要な言葉も交わせてしまうから、咲いていることが当たり前だと思ってしまう。いつまでも咲いている気になってしまう。そんなことはないのに。当たり前なことなんてないのに。


可愛いなと思ったあの花の名前を知るのに、5年もかかってしまいました。
もっと早く調べればもっと早く知れたのに、という後悔と、今このタイミングで調べたことに意味があるのだと、慰める自分もいます。

桜ほど多くの日本人の心を震わす花はないのかもしれません。
長い間愛されてきたのは、色の美しさや香り、厳しい冬を耐えぬいたあとに咲く華やかさはもちろんだけど、そこに命を見るからではないでしょうか。

振り返ればあっという間の、線香花火に似た一瞬の輝き。永遠に続くわけでもない火花のくせに、あの美しさは私たちの心に焼き付くのです。だからこそ弾ける火花の段階に、いちいち名前がつくのです。

桜を撮るあなたも美しく咲いています。
あなたの隣で咲いている花は、今日もきれいですか。

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