LOST IN...
とりとめもなく始めてみる。
とにかく始めてみる。
つねづね行きたいと思っている場所にどんどん行ってみる。
たとえば、朝の船場センタービル。
地下に軒を連ねる飲食店の中に、いくつかいい雰囲気の喫茶店があるのをあなたは知っている。
たとえば、何もすることがない休日に、そのうちのひとつで朝を過ごしてみる。
店は7時開店。遅くとも9時には到着していたい。これを機に、休日は好きなだけ寝ているべきだという価値観を改めてみてもいいだろう。(平日早起きしているのだから、休日まで早起きをするなんてまっぴらだ、という考えは間違っている。そもそも平日の早起きと休日の早起きはまったく別物だと考えなければならない。)
店内には、まだ眠たげな客たちを鼓舞するかのように闘牛を想起させるようなBGMが流れているだろうが、やがて心改めたかのように穏やかなクラシックに変わるだろう。
モーニングセットはホットケーキとホットコーヒーにする。待ちに待った朝ごはんなのではやる気持ちはわかるが、熱々のホットコーヒーで舌を火傷するから十分に気をつけること。
申し分なくモーニングセットを堪能しているあなたは、持ってきた文庫本を開く。この時のために自分の本棚から選んできた、ブッツァーティの「神を見た犬」(光文社古典新訳文庫)、短編集だ。ホットケーキにかぶりつきながら、2話目の「コロンブレ」の恐ろしさに戦慄するだろう。
喫茶店をあとにしたら、しばしビル内を彷徨うのもいい。
進めば進むほど、自分が今、何号館の何階にいるのか分からなくなるだろう。果てしなく続くと思っていたその先が、実は鏡だったこと、また、その事実に自分がギリギリまで気付けなかったことに、驚愕する、そして徐々に、その出来事を象徴的に捉え始める。(鏡にうつる自分の姿をしっかり見ているにもかかわらず、それが誰だか分からない・・・)
2号館〜4号館を上下左右に行ったり来たりしたのち、うんざりしてきたら地上へ出よう。船酔いしたようなGoogle mapは前方方向を示すセンサーを南北逆さに出すだろうから、自分が信じた方角に進むがいい。
北進したら大好きな古書店へ立ち寄る。控えめだが、来るたびに見入ってしまう細部の美しさが魅力的なフジカワビルの中の一室。扉をひらくとユーカリ系のいい香りと温かみのある光に満ちた店内に心からリラックスすることだろう。
あなたが好きな文芸書は多くないが、ここの品揃えが絶妙にあなたのツボをおさえていることをあなたは知っている。そして見つける、ユルスナールの「黒の過程」と「ハドリアヌス帝の回想」を。
2冊とも買って帰りたいところだが、今回は「黒の過程」だけにしよう。また今度来る楽しみのために、好きな本屋さんでは欲しい本をいくつか残しておくのをあなたはマイルールとしているからだ。
フジカワビルを出たら、しばらく周辺をうろちょろしてみよう。このあたりには造形美を備えた建築が点在している。船場ビルディング、青山ビル、綿業会館、etc…
新旧、そのうえスタイルも様々な建築物が立ち並ぶこの界隈を彷徨っていると、自分がいつどこにいるのか分からなくなること請け合い。
14時近くなって小腹も空いてきた。今日はせっかくなのでもう一軒、行きたかった場所へ行ってみよう。
初めての場所へ入っていくのはいつだって多少緊張を伴う。
かまわず入ってしまうこと。そうすれば、あとはもう中の人たちがあなたのことをなんとかしてくれる。
「おひとり?こちらどうぞ。」
「プリン、まだありますか?」
心配そうにそう尋ねるあなたの顔をみて、ハイジのおじいさんを思い出させるその店員さんは一瞬顔を綻ばせるだろう。
セピア色の店内に洒落た調度品。窓際に並べられた写真集。
プリンはかなり名声を得ているようだ、雑誌の紹介記事などが置かれている。
昔懐かしい硬めのプリンだが、他のそれと違うのは、苦みがたっぷりあるところだ。それはあなた好みのプリンで、その小ささを惜しむように、ひとくちひとくち、大切にすくって食べるだろう。
プリンとコーヒーとあったかい店内にほっとし、いささか歩き疲れたあなたは、頭がぽーっとするのを感じつつ、買ったばかりの「黒の過程」を開く誘惑に抗えないだろう。手にずっしりと、もちおもりのする白水社の本だ。古い紙のにおいと、儚さを感じる活版印刷の文字。
ふたりの少年が再会早々、また各々の道へ戻るために別れを告げるシーン。
突然、あなたは我に返る。ここはPayPayとか使えるのだろうか?伝票と財布の中身を確認する。足りない。恐る恐る店員さんに確認してみよう。現金払いしかだめだと言われるが、落ち着いて。店を出て通りをまっすぐ50mほど行くとコンビニがあるし、現金をおろしにいくことを店員さんは快く許してくれるから。
もう帰る、という時で大丈夫なのに、あなたはすぐ行動してしまう。もしもう少し待てば、現金をおろして戻ってきて、もうなんとなく居座り続けづらくなっていて、結局逃げるように店を出てしまう、なんてこともなかったかもしれないのに。
1月もまだ半ばを過ぎたばかりなのに、早春の暖かさを感じる道端で、無償に家が恋しくなる。早く帰ろう、あなたが良く知っているわたしが待つ家へ。
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