末の松山
10年前の今日、何をしていたかと振り返れば14:46には書写の授業を受けていた。
その次の時間には音楽の授業。
家に帰ったら当時まだ専業主婦で家にいた母がテレビをつけて「大変なことになってしまった」と呟いていたのを覚えている。
その日は1日、翌日の土曜も日曜もずっとテレビがついていた。
繰り返し流れる津波の映像、メルトダウン、錯綜する情報。
東北に知り合いはいないし、自分自身が被災した経験もないし、13歳で考えられることも限度があるので、当時何を思ったかは当時の日記を振り返ってもきっと大したことは書いていないように思う。
それでも未曾有の大災害が起こった時代に生きたことは13歳の私には強く印象に残った。
今、自分が教えている生徒たちは東日本大震災が起こったときに小学1年生。
自分も中学1年生だったから大して変わりはしないだろうが、やはり何が起こったか理解できる年齢か否かは大きいように思う。
小学校に勤める友人の教え子に至っては震災後に生まれている子どもたちである。
もうそんなにも時が経ったのかと思うと衝撃的である。
あれからきっと、長い時間をかけてやっと動き出せた人もいるだろうし、まだ時計の針が止まったままの人もいるのだろう。
中教審などでも言われるように、予測不能な時代を生きる子どもたちに私達は何を教えたらいいのか。
大災害はいつどこで起きるのかわからない。
コロナ禍の現状も果たしていつまで続き、いつになったら元の生活が戻るのかもわからない。もしかしたら一生元には戻らないのかもしれない。
あと25年したらシンギュラリティがやってくる。
まだ動き出せない人もいる中で、時の流れや運命というものは酷なもので無常にも進み続ける。
その中で、古典や歴史というものはこの流れ続ける時代や運命に根ざすと思っている。
単なる反復の営みにしないために人は記録を残し、よりよくなるように改善していく。
前近代から近代的な営みとはこういうことだ。
理性があるからこそ人は進歩をしていく。
恐れを因数分解していけば未知と経験の不足などに行きつくであろう。
震災も未曾有の大災害に見舞われたこと、災害が起こったときにどう行動をしたら良いのか知らなかったことなどが震災の恐怖に繋がる。
だからこそその未知を少しでも解消し、経験の不足を知識で補うために記録を紐解き、人は学ぶのだと私は思う。
さて、先程前近代の話をした。
日本に限らずではあるが、日本は長らく前近代の時を生き、進歩主義の近代を生きるのは比較的最近のことのように思う。
神社の祭事などはまさに反復の営みである。
それを否定するつもりはないしむしろ廃れて欲しくはないものだと思うが、まだ色濃く残っていることを考えれば反復の営みの権力の強さを伺える。
しかし、本当に反復ばかりであったのだろうか。反復から脱したのは最近の出来事なのであろうか。
百人一首にも詠まれている有名な歌がある。
震災のたびに思い出す歌。
清少納言の父である清原元輔の
ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すゑのまつやま なみこさじとは
この歌の「末の松山」の話は有名である。
ありえないこと、をあらわすために和歌に読み込まれるもので歌枕にもなっているものだ。
何がありえないのかといえば、地震の際に津波が末の松山を越すことである。
貞観地震のあとに詠まれているこの歌は、地震によって引き起こされた津波が内陸2キロほど行っところであっただろうか、末の松山には到達しなかったことを示している。
大地震の際にも末の松山を浪が越すことはなかったように……はありえない。
こんなふうに和歌に詠みこまれている。
実際東日本大震災の時にも末の松山を津波は越していない。
周期的に引き起こされるこの地震について詠まれた歌が遥か昔に存在していた。
さらにいえば、ここまでは浪がやってこないことが歌として残されている。
最初にこの歌枕を用いた歌人はそんなことを意図していなかったのかもしれない。
しかし、この三十一文字の文学は現に後の繰り返された震災から人々を救う一助になっている。
こう考えたときに単なる反復ではないことが伺えるのではないか。
百人一首を選定した藤原定家は記録を残し、継承することに早くから価値を見出している。
すぐに還元されない価値にも関わらず一族を巻き込んだこのプロジェクトが成功したおかげで私達は数々の古典作品に触れることができている。
源氏物語しかり、明月記しかり。
形あるものも、ないものも、
文字として記憶に、記録に残すことは素晴らしいことなのだと再確認させられた。
と、なるとやはり私達にはそれらを継承していく責務があるように感じる。
だから私達はペンを手に執り、記憶を、記録を残すのだ。
古典や歴史を学ぶ真価はここにあるのだと思う。
新海誠監督の「君の名は。」などにはこれがとても色濃くでているように感じる。
大火による伝承の焼失、それによる舞の形骸化。
形だけが残った結果1巡目(と評していいのかは分からないが)では糸守の街は全壊し被害も大きい。
震災文学などとも評されるが、これは2巡目の救いがあることによる昇華の物語だけにとどまるものではないと私は思う。
記録の消失がどれだけ重大なことなのか、そして記録をしないということは人の記憶に頼ることである。人の記憶というのはあまりにも儚く頼りない。
この10年の間でも実感することだと思う。
そしてそれを実際に経験した人でなければ余計にその記憶というものは思い出さない限り薄れていくもの。
記録を残す前は口承であった。
しかしそれにも限界はある。
震災を振り返ることが形骸化してはいないか。
何かよくわからないまま伝え聞くだけで終わっていないか。
これは震災に限らず戦争の記憶の継承にも通じることなのだと思う。
人は理性を持ち、進歩する生き物である。
だからこそ反復で留まったり、同じ過ちを繰り返すことは避けなければならない。
1000年以上遥か昔を生きた人々が末の松山を歌によみこんだように、継承する意味を考え、忘れられないようにしなければならないと思う。
教員として人の前に立つ仕事を選んだ以上、こういったことを伝える責務もあるのではないかなと思っている。
大学の時に東北に足を運ぼうと思いながら最後2ヶ月ほどがコロナで思うように動けなかったり、想定外の一人暮らしの準備に追われたりなどで結局東北に赴くことは叶っていない。
果たして東北に足を運ぶことができるのはいつになるか分からないが、赴けた暁には末の松山には必ず行きたいと思っている。
1000年前を生きた人が伝えたかったことを、できるだけ正確に読み取ることができるように私達は学ばなければならない。