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幸せは不幸な顔をしてやってくる

mezameキャリアコンサルタントの東 公成です。

「私のファーストキャリア」をお話しする前に、まずは簡単に自己紹介をさせてください。

現在は、「合同会社 東 公成事務所」という企業で、働く人を支援する事を本務とする会社を経営し、キャリアコンサルティング、企業研修などを行っています。

mezameでは男性のキャリアコンサルタントとして、企業の男性向けに女性の健康とキャリアを啓蒙するお役目を持っております。

大学を卒業してから定年を待たずに退職するまで、主に日本のIT企業に2年ほど、その後、外資系企業4社のIT部門に30年ほど身を置いていました。

外資系企業にいたときは、社内のシステム開発のマネージャー、アジア太平洋地区のマネージャー、米国本社のIT部門でのマネージャーなど履歴書的には「なかなか、良さげに見える」仕事をしてきました。

しかし実際には、自分が採用した部下が上司になるという下克上を経験したり、上司からハシゴを外されたり、社内で干されたり、通勤途中の駅のホームから線路を見て飛び降りたら楽になるだろうと考えたり、戦力外通告を受けたり、さらにリストラされたり、はたまたリストラしたり……と履歴書に書けない波乱もそれなりにありました。

そんな私のキャリアですが、振り返ると「幸せは不幸な顔をしてやってくる」という、実業家・斎藤一人さんの言葉が浮かびます。

半泣きで「私に内定をください」と頼んだ就職活動

私は、国立の外国語大学でスペイン語を学んでいました。

これまた履歴書的には悪くないじゃんって学歴なんですが、実は第二部、つまり夜間部の方でした。

共通一次試験の結果が壊滅的に悪く、どこも行けるところがない状態。しかし、第二部にはなんとか合格しました。勤労学生のための学部にいながら、勤労はそっちのけで、大学生活というものを満喫したかった私は学生らしくスペイン語をがんばったりギターに熱中したり。

1985年、そんな私にも、最終学年に就職シーズンがやってきます。

昼間部の皆さんがホイホイ内定を取ってくるのに対して、私には「ご縁がなかったようです」というお返事ばかり。

スペイン語が使える仕事、海外にいける仕事にこだわり過ぎたせいか、バブルに向かう好景気で売り手市場だったにもかかわらず、20連敗を重ね、半泣きで「私に内定をください!」と公衆電話で頼んだこともありました。

夏は過ぎ、就職情報誌の特集も「今からでも間に合う企業」。惨めな気持ちで会社訪問を続けた中の一社が、私にチャンスを与えてくれました。

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挫折の連続だったファーストキャリア

筋金入りの文系の私をなんとか採用してくれたのは、情報処理大手が設立したネットワークの会社。営業職を希望したのに配属されたのはシステム開発部でした。

未経験だったコンピューターのプログラミングは、ロジカルにものを考えることが苦手な私にとって苦痛以外の何ものでもなく、同期の中でもとにかく仕事が遅く、作成するプログラムはバグにつぐバグ。

ある日、休日出勤して部長席の横を通ると、私の上司の課長が提出した報告書が見えました。そこには部長が赤ペンで「東の生産性が低すぎる。なんとかするように」と書かれており、屈辱で頭の中が真っ白になりつつも、同時に、「しかたがない、文系なんだから」との諦めもありました。

翌年、後輩が入ってくると、私は後輩の指導係を命じられました。

しかし、プログラム開発スピードと品質では後輩たちにまで抜かれる始末。社内でもますます孤立し会社に行くのが苦痛でした。大学でスペイン語を専攻したにもかかわらず、まったく活かすこともできず、苦手な仕事をイヤイヤやることで量産される不始末の数々。

これをキャリアミスマッチと言わずしてなんというのでしょう…。

「私は人生で何をやりたかったんだろう」と、墜落寸前の自己肯定感に苛まれる毎日でした。

M先輩との出会い

そんなある日、組織変更がありMさんという先輩ができました。

Mさんはいろいろと悪い噂があるブラックな人でしたが、なぜか私とはウマがあい、またプログラミングに関しては素晴らしいものを持っている人で、「東、お前バカだな〜。こんなのもわかんないの?」と笑いながら、教えてくれました。

Mさんは私をよく飲みに連れて行ってくれ(ただし割り勘か6:4)いろいろな話を聞かせてくれました。

今でも覚えているのは、

「仕事というのはめんどくささとの闘いだよ」
「読書百遍意自ずから通ずだよ、お前がプログラム書けないのは設計書の読み込みが足りないからだよ。100回読め」

という言葉です。

そんなMさんのもと、私は次第に自信を取り戻し、少しは使えるプログラムが書けるようになりました。

M先輩は、技術力は高いのに、社内で喧嘩をするなどとにかく行動に問題があり、彼もまた孤立していたのですが、なぜか私には優しかったのです。その理由は、ある酒の席で「バカな東を見ていると、過去のオレを見てるみたいなんだ」とポツリと呟いた言葉でわかりました。

キャリアは続く

あずま28歳の頃2社目の会社でシンガポール出張した時の写真

やがて、Mさんは転職してしまいました。

しかし、Mさんの転職のアレンジをしたエージェントが私にも声をかけてくれ、私はとある外資系メーカーのアジア太平洋の姉妹会社向けのシステムを開発する、小さなチームに転職しました。1988年12月。昭和があと数週間で終わろうとしていたタイミングでした。

プログラマーとして新しいコンピューター言語に取り組み、フレッシュな気持ちで仕事を始め1ヵ月ほどたったときです。私のそばを通りかかった上司がこう言いました。

「東くんのプログラミングはいいね。さすがだね!」

その日以来、私が書いたプログラムは上司にも先輩にもよく褒められました。前職とはまったく異なる評価…。

本当に苦しんだ前職での2年間でしたが、Mさんのおかげで私の中にしっかりとしたスキルが育っていたことに驚き、また感謝の気持ちでいっぱいでした。

その後の約10年、やりたいことをなんでもやらせてくれた環境で存分に仕事ができ、国内外のさまざまなところに出張し、たくさんの人に出会い、多くのことを学びました。

「ファーストキャリア」というお題をいただいたとき思い出すのはこの話です。この幸せな10年の終わりから、私の運気はまた低迷し様々な苦労が降りかかってくるのですが、それはまた別の機会があればお話ししましょう。

「幸せは不幸な顔をしてやってくる」

落ちこぼれの夜間部の学生が、どこも行くところがなくて入ってコンピューターの会社。そこでもまた落ちこぼれのプログラマーだった私。自信もなくどん底の時代に出会ったMさん。

「お前はバカだな」と笑いながらも、Mさんは私を受容してくれました。

Mさんと過ごす日々の中で、私は自信を取り戻し、それまで自分になかったスキルと知識を獲得し、転職先の会社では評価されるプログラマーへと成長していました。

ファーストキャリアは不幸に思えたのですが、実は不幸な顔をした幸せだったんのではないかと今は思います。

1919年の世界恐慌に匹敵するほどの経済的困難に見舞われているWithコロナの時代の今ですが、幸せは不幸な顔をしてやってくるという言葉を忘れずに、先のことばかり憂いすぎず、目の前にあることに集中して、歩み続けようと考えています。

■ 文/東 公成(あずま・きみなり)
国家資格キャリアコンサルタント、DiSC認定トレーナー、プレゼンテーショントレーナー


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