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シリアスに寄り添わなくても良くないか?


何の共同創造に加担して、何の共同創造には加担しないのか。


被害者意識について


例えば目の前に、つらそうにしている人がいる。


「◯◯さんのせいで」「◯◯のせいで」など、原因が語られるとき。

そこには、そのつらそうな人のなかの被害者意識が、バッチリ現実創造されている。つらそうにしていたいから、◯◯さんや◯◯という原因が配役として現われている。


そして、つらそうな人が身近に現われたり、関わりが生まれたとき。

まず、寄り添わなくてもよくないか?と思うし、

こちら側の態度はシリアスじゃなくても良くないか?とも思う。


様々な事情はあれど、つらそうにしている(さらにはし続けている)人は、そうしていることに必ずメリットがあってやっている。

つらそうな役割を、やりたいのだ。演じたいのだ。


ならば、どうぞどうぞ。やめなくて大丈夫!

思う存分やってもらって、満足したらまた声かけてねー。

以前綴ったとおり、これもまた、愛なのです。


そんなときに、そのつらそうな様子をサポートするような態度、言動、関わりをしてあげることは、一緒にその寸劇を共同創造してあげることになる。

ひとりの配役として、そのつらそうなドラマにエネルギーを注いであげているのだ。それもまた、ひとつの形だと思う。善悪の概念なく、善悪を超越している。

これはこれで、三次元でのドラマチックな感情を楽しめて、面白い。


一方で、「つらい!やめたい!」と言い続けている人を見ていると、わたしはたまに、だんだん面白くなってくることがある。

劇団ひとりしてるなとか、ギャグ漫画日和だなあとか。


さらにそこに、真剣に、真面目な顔をして「うんうん」と聴いてくれている人がいるとき。そのドラマ全体に、ごめんけど時々面白くなってしまうときがある。


これは言うなれば、そのドラマや寸劇の配役としてではなく、たぶん、観客の視線で見ているんだと思う。

つまり、ドラマや寸劇のマトリックスから抜けている。

目撃者という点では、共同創造に関与している。


「つらい私」を語るとき、つらい私を認めてほしい、証明してほしい、つまり共同創造してほしい、という期待がある。

そんなときに、本当に真剣につらいの!と語れば語るほど、目の前の人が面白がったり、ゲラゲラ笑いだしたりしたら、ムカついてくるでしょう笑

(絶賛ドラマ演じ中のときの)私はムカつきます笑

ただ、ヒプノセラピストとしてマトリックスから抜けやすくもなっているので、すぐに「あ、悲劇のヒロインやってたわ」と恥ずかしくなることの方が多いかもしれない。

それはそれで、恥ずかしがっている自分のことを、ほくそ笑んで可愛らしいなと思っている自分もまた、観客として存在するのです。


このムカつきは、「なんで一緒に『つらい私』(のドラマ)を共同創造してくれないの!」というもの。私が期待している通りに、なんで動いてくれないの!というもの。


そのムカつき、逆ギレにも、ますます面白がられたり笑われたりすると、どうなるか。

ブチギレてその場を去ろうとすることもあるけれど、仮にその場が安心安全を感じている場だったとしたら、だんだん自分も面白くなってきちゃったりするもの。

そうすると、あら不思議。

なんでムカついてたのかポカンと忘れたり、つらかったことすらどうでもよくなる。

これはドラマや寸劇が終わったり、変わったりというもの。

量子もつれ現象とも言えるものでしょう。


笑いは、祓い。うんうん。


余談

わたしは小さい頃から「悲しいと思ってないけれど、この場では悲しいという感情を演じておいたほうが良さそう」とか、「罪悪感はないけれど、罪悪感を出しておいたほうが安全そう/相手が満足しそう」といった、本来無い感情をクリエイションしてたことがあったなあ、と振り返る。

それはそれで、相手への思いやりとか、愛情表現とか、はたまた生存戦略だったなあと思うし、可愛らしい三次元でのドラマ演出のお手伝いをしていたんだなあと感じます。

それがドラマや寸劇、劇団ひとりしているということに気付き、ともにドラマを共同創造するのではなく、別の形でともに再創造することも出来るものです。


何の共同創造に加担し、加担しないのか


ここに自覚的であると、さらにしあわせだなあ、と思います。


じぶんがどんなことの共同創造に加担しているのか、

すべてを自力で知覚することは困難だと思います。

いつのまにか、そのドラマや寸劇、マトリックスにログインしているものだから。


そして、それがドラマや寸劇、マトリックスであることにきづけるのは、それらの外側の世界や視点がないと無理だから。

進撃の巨人において、巨人たちが壁を破壊しなかったら、壁の内側の住人たちは壁の外に世界があるなんて思いもよらなかったでしょう。

そんな感じ。


なので、よりいっそう、私は寄り添わずただここにいるをし続けていようと思うし、シリアスにもならずドラマにほくそ笑んだり、笑っちゃっていようと思いました。


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