と或る古びた中華屋にて
「彼女ができた。」
そう告げられたのは、麻婆豆腐を2噛みし、米を放り込んだときだった。動揺を隠すため、とりあえず咀嚼を続ける。「そうなんだ、おめでとう」淡々と相槌を打つ。ふりをする。これが精一杯。そろそろ飲み込もう。とするけど、咀嚼物が喉を通らない。私は強引にウーロン茶でそれを流し込んだ。
「結婚を前提にってことでさー...」
彼は惚気とぎこちなさの混じった声で、話を続ける。
(聞きたくない聞きたくない)
「ずっと友達でさー...」
まだバレてないはずだ。
食べ物を口に運ぶのを止めるタイミングがわからないまま、私はこの状況での最適解を必死に探していた。
祝福すべきか?
本音を押し殺して友達役に徹するべきか?
今ここで決断しなければ...。
食道から胃へ流れる物体がやけに重い。
逡巡虚しく、咀嚼をやめた私の口はこう言い放っていた。
あなたのことが好きだった。
だから、これからも友達でいるのは難しい。と。
「会えなくなるのは寂しい」
いつかどこかで聞いたことのある言葉が何食わぬ顔で返ってきた。卑怯だ。
続けてこうも言った。
「いいことがありますように。」
・・・パリーン
その瞬間、私の中で何かが壊れた。
「そちらもお元気で。」
私は反射的に荷物を手にし、店を出た。呑気に写真を撮っている観光客たちをかき分けて、早足で駅に向かう。
“避難せよ...!”
脳内にアラーム音が響き渡る。
コントロールを失った自分を言い聞かせながら、15番線だか16番線だかの山手線に乗り込む。
私の体は東京駅へと運ばれた。本当は夜行バスで帰るはずだった。だけど、一刻も早く自宅の布団に閉じこもりたかった私は、迷わず4分後に発車する新幹線の切符を買った。12000円ちょっと。
席に滑りこむと、一気に気が抜けて涙腺が緩んだ。溢れる涙を誤魔化すために、私は本を開いた。お守り代わりにと入れておいた小説は、私が“ワケあり”な女に見えないように守ってくれた。はずだ。そう、今私は小説で涙してしまっただけのちょっぴりセンチな女である。文字はほぼ読めなかった。
いつかゴールデン街で撮ったモノクロ写真。今まで財布に入れてたそれは新幹線に置いてきた。
・・・
一度飲み込んでしまった中華を吐き出しきれないまま、新幹線は新大阪に着いた。右に並ぶ。これが性に合っている。東京駅からのえずきは続いているけど、飲み込んだものはすでに消化されて体内に吸収されつつある。それが明日以降の私を形成するのだと考えると、私はますます自分のことが醜く思えた。
私は私のために祈る。
どうかいいことがありますように。
いや、私は誓う。私は私を幸せにする。そのために明日も生きる。