無謀な暴走が招いた虚構の経済圏~安達宏昭「大東亜共栄圏:帝国日本のアジア支配構想」(中公新書)
著者は日本近現代史を専門とする歴史学者で、現在は東北大学大学院文学研究科教授。これは、20世紀前半の大日本帝国がアジア・太平洋戦争(15年戦争とも言われる)という帝国主義的侵略行為の中で、どういう「経済戦略・構想」を抱きその実現に失敗したかを、戦争・侵略による暴力・加害行為ではなく専ら「経済的側面」から解明した労作である。豊富な史資料の提示と丁寧な検証で、当時の帝国日本とアジア諸国の状況を冷静に振り返るには格好の教材にもなる、優れた論考である。以下、この著作の要点を私なりにまとめておく。
第一次世界大戦以降出てきた「総力戦」という概念の中で、天然資源に乏しい日本が軍事大国として先進帝国主義国の米英などと覇権を争うには、自らが支配権を持つエリアでの自給自足経済圏樹立が必須であった。しかし1930年代に至るまでの日本の工業力はまだまだ低く(特に重工業)、米英への経済的依存を抜け出す力はなかった。そうした中、1931年満州事変以降は米英との協調を重視せず、一種の「アジア・モンロー主義路線」が台頭していく。
日本が建国させた傀儡国家「満州」には関東軍が目論んでいたほどの資源はなく、そのため財界・軍部でも資源豊富な北支(中国北部)をブロック圏に取り込んで日満支経済ブロックを目指すようになる。さらに1930年代後半までには、東南アジア諸地域に財閥系企業が進出し、欧米植民地での経済活動による原料資源獲得が盛んになっていく。
上海まで中国戦線が拡大し中国との戦争が全面化すると、日本政府は1937年10月に内閣直系官庁として「企画院」を設立~さらに1938年12月には「興亜院」が設立され、近衛文麿首相は日本の戦争目的を「東亜新秩序の建設」にあるとし、反共を名目に中国国民(党)政府を手なづけようとするが失敗。1939年9月にナチスドイツのポーランド侵攻で第二次世界大戦が始まると、英国のドル決済停止によって日本は外貨決済構造が破綻。そのため資源獲得には、日本を中核とした日満支の強い結合を基礎とした「大東亜新秩序」建設と自給自足経済圏確立が必須と主張するようになる。当時の松岡洋右外相が「大東亜共栄圏」という言葉を初めて使ったが、それはむしろドイツに対して東南アジアでの利権を主張し勢力圏に入れないためのスローガンだった。
1940年の小林一三商工相による経済交渉では、蘭印(ほぼ現インドネシア)は石油交渉で日独伊三国同盟(9月27日成立)以降に態度が硬化。仏印(ほぼ現ベトナム・ラオス・カンボジア)はフランス本国がナチスに降伏したヴィシー傀儡政権のため交渉は順調かと思われたが、コメ輸入交渉などで難航。結局、仏印からの物資は蘭印物資を補完できるほどではなかった。その後も、蘭印・仏印からの物資調達を交渉によって成り立たせる試みは失敗に終わり、結局軍事力による確保が本格化していく。そして日本軍の南部仏印進駐が米国の反発を招き、日本の在米資産凍結・石油禁輸措置へと繋がっていく。こうして経済封鎖を受けた帝国日本は、武力による排他的経済自給圏「大東亜共栄圏」形成に走るようになる。
1941年12月8日に米英との戦争を始めた日本は、翌年2月10日に東条首相を総裁とする「大東亜建設審議会」を閣議決定。戦争を始めてから計画を立ち上げるという、経済政策としては「泥縄式」のものだった。9月には「大東亜省」設置を閣議決定。目指したのは「天皇を頂点に戴く帝国日本を核心とした共存共栄の秩序」とされたが、あくまで日本の階層秩序・労働秩序を遵守する中で各国・各民族がその役割を果たすことが求められていて、民族自決は認められていない。そして、帝国日本の統治による自給圏建設が現地住民の生活を保証し福祉をもたらすとするが、そのためには「初期の物質的窮乏に耐えさせて当面は我慢させる」のが前提だった。
その後の、企画院&陸軍・商工省・海軍の方針の対立と齟齬。企画院は日本・満州・北支での重化学工業分散と産業再編成を主張し陸軍もこれを支持、商工省は内地中心での産業再編成のために統制権限確保を重視、海軍は企画院の企図をさらに南方に拡げるよう主張。議論は続いたが、1942年7月の各部会で決められた主要産業の開発計画・生産目標はかなり楽観的~というより誇大なものだったが、米英への開戦後半年で日本が優勢な戦局の中、見通しのない目標が設定された。そして北支や南方地域での綿花増産の混乱、日本軍占領地域からの欧米への輸出途絶による販路喪失など、元々計画性がない中での各部門の対立は、大本営参謀本部の反発を招きながら次第に泥沼化していく。
南方占領地域における軍政と「独立付与」の綱引き。フィリピンやビルマ・インドネシアでは植民地エリート・民族主義者を取り込み、既存の統治機構を利用しながら軍政を施行していくが、英領マラヤ・シンガポールでは多くの華僑を日本に敵対的と弾圧・処刑。初期の南方政策ではエリート層への宥和的側面もありながら、反日的と見做されれば苛烈な弾圧が待っていた。そして日本語教育による「同化政策」。
重光葵は1942年1月の駐英大使就任から「対支新政策」として内政不干渉・支那(中国)の自主権尊重を主張したが、それが軍部・政府に一時的にでも受け入れられたのは、42年後半からの南方戦線悪化から中国戦線の人員を南方に振り向ける必要のためで、彼が主張する「理念」は結局時勢によって軍部・政府に都合よく解釈されるだけであった。彼が後に外相に就任した後も基本的には同じこと。
また、米国の植民地時代に1946年独立を保証されていたフィリピンと、インド独立運動との関連から英国弱体化に効果ありと見られたビルマは1943年独立を認められる。しかしそれは、日本軍駐屯や外交・経済で日本の強力な指導下に置く、形だけの「独立」でしかなかった。
重光外相が提唱する「大東亜新政策」では、東南アジア諸勢力と宥和的関係を築き日本の戦争協力に結び付ける狙いがあったが、それが結実したのが1943年11月に開催された「大東亜会議」。南京国民政府・満州国・タイ・ビルマ・フィリピンの首班やインド仮政府のチャンドラ・ボースなどが参加し、その後「大東亜戦争完遂決議」がなされる。この一連の動きでの各首班の抵抗などが、それぞれの自主権主張と帝国日本の軍政からの離反にも繋がっていく。
軍政が施行された東南アジアでは日本企業が続々と進出。多くの鉱山などは日本軍が接収し日本企業に委託経営させる方式。その多くは10大財閥系企業・国策会社など。占領戦闘時に破壊された油田などは日本企業技術者によって復旧され内地への輸送が始まるが、戦争初期以降の日本軍の各地での敗戦による戦局悪化から、各物資輸送船舶が圧倒的に不足するようになっていく。そして、海軍の南方進出推進とそれへの陸軍の追随による戦線拡大~さらなる物資輸送の困難化。また、日本の「大東亜」の理念が所詮はもっぱら日本の利益のためでしかないことを見切った民族主義者たちの失望と離反などから、各地でゲリラ闘争も激化。地下資源採掘・農作物増産の計画性のなさ(綿花の高温多湿地帯での無理な栽培等)。やがて長期的政策は棚上げされ場当たり的対応に追われていく。それは北支・満州からの食糧供給でも輸送力の激減によって供給減少の一途を辿ったり、低温や水害による綿花栽培の失敗(南方に次ぐ)など様々。
結局、経済破綻の道を辿るしかない帝国日本にそれまで従っていた現地勢力も次々離反していき、1945年8月15日の日本敗戦によって「大東亜共栄圏」は瓦解する。帝国日本の独善性と計画性のなさ、他民族・他国家への優越意識とその暴力性がもたらした当然の帰結でもあった。ちなみに、日本の敗戦後にインドネシア独立戦争に参加した兵士が1,000名程いたが、それはあくまで「個人の意思によるもの」とされ日本軍は彼らの行動を認めず「現地逃亡兵」として扱われている。それが「アジアの解放」を標榜した帝国陸軍の実態だったということだ。