小熊英二「単一民族神話の起源:<日本人>の自画像の系譜」~今改めて、日本とはどういう国なのか?
現在慶応義塾大学教授の歴史社会学者:小熊英二氏の初期代表作であるこの著作を、今更ながら読んでみた。これは、氏のあとがきによると、大学院での修士論文を書籍化したもので1995年7月刊。四半世紀前の論考だが、今読んでも教えられるところが実に多い、非常に優れた論考である。氏は幕末・明治維新あたりからの様々な論者による「日本人(民族)論」を詳細かつ網羅的に紐解きながら、この国の人たちが自国をどのように思い描き、それを様々な政治的・社会的動きに援用していったかを克明に説いている。
所謂「国体」という概念が、江戸時代後期~本居宣長らの国学によって生み出されたものであることはよく知られているが、明治期以降のこの国での人類学の勃興~欧米諸国の人類学への反発と、ナショナリズム的発想からの「天皇を中心とした国のかたち」の主張。しかし、明治期からアジア太平洋戦争までの時期~この国では必ずしも「単一民族論」が主流を占めていたわけではなく、常に「混合民族論」と「単一民族論」が入れ子のように入れ替わりながら、その時々の政治情勢に併せるような形で主張されていったことは、私には意外な、そして大きな発見だった。特に、大日本帝国が「大東亜共栄圏」という名分の下でアジア侵略に手を染めていく過程では、この「混合民族論」が盛んに主張されていた~というのは、何ともアイロニーに満ちた「民族意識」の在り様だったことがよく分かる。アジアへの勢力拡大を唱える多くの研究者・政治家・運動家などが「日本人は南方系民族と朝鮮半島からの渡来人などの混合民族」であることを主張し、「天孫民族(天皇家を中心とした部族)がいらした高天原とは朝鮮のこと」としているのは今見ると驚きである。しかし彼らはその論理を、「日鮮同祖論」という名の下に「だから太古同じ民族だった日本と朝鮮は兄弟のようなもの。それが再び一つになるのは至極自然なこと」と「日韓併合」という植民地政策の正当化に利用していく。そして「兄弟のようなもの」と言いながらも、そこでの上下関係は厳然とあり、実態は「天皇を中心とした日本による支配関係」でしかない。こうした、「皆同じだよ」と言いながら差別抑圧する欺瞞的支配構造に、この「混合民族論」としての「日鮮同祖論」は巧妙に利用されていく。
そしてあの戦争に壊滅的に敗れたこの国が、戦後「混合民族論」から急速に「単一民族論」に傾倒していくのも、何とも象徴的。特に、所謂進歩派とされるマルクス主義歴史学者たちが、その教条主義的歴史観から「日本の古代にも原始共産制社会はあった。そこには差別抑圧や武力による他民族支配・制圧などはなく、『同じ日本人』が仲良く暮らしていた」といった一種のお花畑的概念で「単一民族論」を展開していったことは、戦後日本の「戦争をしない平和国家として再生する」願望がそこに内包されていたとはいえ、今から見ると何とも無理がある「論理」ではあった。
21世紀に入って既に20年が過ぎた現在、最新の人類学・考古学・歴史学研究やDNA鑑定などの調査結果から~「旧石器時代から縄文時代までに、広く日本列島に渡ってきた南方系民族~そしてそこに弥生時代以降に主に朝鮮半島から渡ってきた渡来人たちが九州・近畿などで支配勢力となっていき(天皇家・豪族などの始まり)、熊襲・蝦夷などと呼ばれていた先住民族(それらは今のアイヌや沖縄の人々の先祖でもあったろう)をその支配下に収める中で、国家としてのカタチを整えていった」というのが大まかな実相だっただろうことが伺える。
この著作が出された1995年~まだこの国は、現在の歴史修正・捏造主義者たちが跋扈するような酷い状況ではなかったが、今や「単一民族論」の名を借りた差別排外主義が当たり前のように右翼偏向メディアなどで主張される中、小熊氏のような賢明な研究者・論者がこの国のアカデミアの中にまだ健在であることは、ひとつのかすかな救いでもある。
しかし、私がこの著作を読みながら、様々な歴史事項の確認のためにネットで検索していて気付いたこと~それは、以前から多くの論者によって危惧されていた「ウィキペディアの記載の偏向ぶり」である。例えば「神功皇后」や「三韓征伐」など、日本書紀に記載されている多分に神話的事項までが、あたかも歴史的事実だったかのような記述がなされている。3~4世紀頃の朝鮮半島で、北方騎馬民族が建国した高句麗では既に鉄器が使われ、南部の新羅・百済も同様。一方、朝鮮半島からの渡来人によって当時の先端技術や文化を学び吸収していた倭の国が半島を征服した~というのは土台無理筋の作り話でしかないのは明らか。神話をどこまで信じようがそれは個人の自由だが、「ファンタジーと願望に基づいた自国意識・自画像」に乗っかった「美しき国・日本」の誇りは、実態としては誠に脆く危うい。科学的成果をしっかりと受け止めて、国家像を描いていくことの大切さ~この重厚な論考を読み進めながら、私は改めてそのことを深く考えた。
最後に小熊氏の絞めの言葉を引用しておこう~「本書の結論は、いたって単純だ。神話に対抗することは、ある神話を滅ぼしてべつの神話にいれかえること、たとえば単一民族神話を批判するために混合民族神話をもちだすことではない。求められているのは、神話からの脱却だ。それは、若干の労力を要する。年齢と経験を経るごとに、人間の知識在庫は蓄積され確信を増し、一方で相手と一人ひとり誠実に対応する体力は低下してゆく。その過信と疲労の隙間に、神話は忍びこむ。だが、そのことに意識的となり、神話に囚われる一歩手前で踏みとどまるだけの力は、誰しももちあわせているものと信じたい。異なる者と共存するのに、神話は必要ない。必要なものは、少しばかりの強さと、叡智である。」
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