我々は言語で思考する。「中動態」的思考の復権に向けて~國分功一郎「中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) 」(医学書院)
これは先日読んだ「<悪の凡庸さ>を問い直す」など複数の著作の中でこの「中動態」という概念とこの著作のことが出てきたので、「これは読んでみなければ」と私も読んでみたもの。非常に面白く示唆に富んだ優れた論考だった。著者は哲学者で現在東京大学大学院教授だが、この著作は医学書院の「シリーズ ケアをひらく」の一環として出版されている。あとがきによると、そもそもこの著作執筆のきっかけが著者の前作「暇と退屈の倫理学」を巡る講演会などでの医学研究者やアルコール・薬物依存症患者サポートに取り組む人たちとの出会い・交流からだという。そこで向き合う「近代的主体」の諸問題・・・
まず最初に、最近の脳神経科学に基づくと、人が手足を動かすなど何か『行動』する時には「動かそうという意志が現れる前に先に脳内で運動プログラムが作られている」という。「意志は後からやってくる」のだ。そして、こういう「行為における意志の問題」は精神医学・脳科学的側面だけでなく哲学の世界でも様々に論じられてきた。著者の専門であるスピノザの「自由意志の否定」~そこから議論は文法・言語学の世界に発展していく。現代の我々は多くの言語で「能動態・受動態」の二つの「態」があることを知っており、「動詞」つまり行為を表す言葉は「する」か「される」かの対立概念として理解しているが、実は古典ギリシア語以前の言語世界では「中動態」という「受動態」とは別の「態」が存在していて、その言語表現では能動・受動の「するかされるか」ではなく、その行為が「主体の外に及ぶか内に及ぶか」によって能動・中動の区別がなされていた。現在の「受動態」はかつての「中動態」が消滅する過程で分岐したものだという。私が大学時代に学んだフランス語(ラテン語由来)にも「代名動詞(再帰動詞)」という語法があるが(いわば他動詞の自動詞化現象)、学生時代には「えらいもって回った言い方するな」としか思わなかったが、これなどまさに「中動態」の名残りである。そしてこうした「中動態」的言語世界は日本語の古語にも見られるという(「ゆ」の活用など)。
さて、なんでこの「中動態」に著者はそこまで注目するのか?ここで重要なのが「意志」の問題との関連である。曰くアリストテレスなどギリシア哲学にはそもそも「意志」の概念はなかった。そしてこの中ではハイデッガーやドゥルーズなど様々な哲学者の論考が引き合いに出されるが、特に重要なのがハンナ・アーレントである。何かを「選択」することは「過去からの帰結」であってそれは「意志」ではない。そもそも「原初的意志・根源的意志」なるものは「神」以外には持ちえない。なぜなら我々が持つ「意志」はその前提に何かの事案に相対しているから出てくるもので、それ自体がある種の「反応・選択」に過ぎない。その意味では我々が「意志」と呼んでいる精神作用も「受動の一種」とも言える。こうした解釈は、我々の社会が「能動か受動か」「肯定か否定か」「強制か自発か」という「百かゼロか」的二律背反では決められないグレーな事案に溢れていることを「うまく理解する」のに非常に有効な観点となる。だから、今や言語の世界では廃れてしまった「中動態」的なモノの観方が大切~ということがこの著作の最大の論点である。
私はこれを読みながら、現在のフェミニズム界隈でよく言われる「ネガティヴ・ケイパビリティ(反転的受容力とでも言おうか)」とどこか通底するものがあると思ったし、あらゆる行為主体性と責任の追及が厳しすぎると、人間はどこか「もたなく」なることもあるのかな?~とも感じる。「近代的自我・意志」を追い求めるのはほどほどが肝要なんだろう。
尤もここで展開されている議論は、政治家や国家の犯罪行為・戦争責任・植民地支配責任における「意志と責任」に免罪符を与えるようなものではない。そこは重々注意が必要である。
しかし國分功一郎さんの論考はええな!前にみた「エアレボリューション」も面白かったが、「この界隈(どの界隈や?)」の人たちには学ぶことが実に多い~(*^^*)
<付記>日本語の助動詞「れる・られる」も「受動」の意味だけでなく「可能・自発・尊敬」など多様な意味を含められるまことに不思議な品詞だが、今でも頻繁に使われる「○○と思われる」「○○と考えられる」などの表現は、可能なのか自発なのか受動なのか?また「誰が」思う・考えるのか?~かなり曖昧で、これも「中動態」的用法の名残りなんだろう。そして、この著作でも詳細に説明されているが、英語での"This book reads interesting"(この本は面白く読める)といった言い方~これも「中動態」の名残り的表現らしい。「中動態」~まことに奥が深くて面白い!