田中優子・松岡正剛「江戸問答」~「この国のかたち」を問い直す、新しい視座の提示
これは2017年に出版された「日本問答」の言わば続編。この1月に「日本問答」を読んで、著者二人の冴え冴えとした知性の交歓に非常に刺激を受けたので、これも読んでみた。
「日本問答」で提示された「武家と公家・からごころとやまとごころ・天皇と将軍・神と仏」などこの国の様々なデュアル(二重)構造、「見立て、やつし、諧謔化、もどき」などその変化の自在さ。そうした、この国のかたちを振り返るうえで重要な要素をさらに拡大させて、特に江戸期を軸に縦横無尽に語り尽くした知的営みである。
まず二人は「面影問答」として、自身の幼少期に育った街の記憶などを引き合いに出しながら、「日本の面影」を探っていく。私はこの中で「江戸は江(入り江)の戸であり、廻船問屋などによる膨大な物流集積には格好の位置にあったこと、また江戸には琵琶湖の見立てとしての不忍池、延暦寺の見立てとしての寛永寺など「京都などを映した(移した)場所」が多くあり、また当時の大坂にあたる商業地が日本橋界隈であること~こうした「うつし」によって江戸が成立したことに非常に興味を持った。当時の「新しい都市・江戸」は、こうした「うつし・やつし・転換・変相」による融通無碍な顔を持つ非常に豊かな文化・文明を花咲かせたところであり、その時代が長く続いたことは、今から見てもこの国を象徴する一時代と考えていい。
次に「浮世問答」として繰り広げられる対話は、「日本問答」でのそれと重複するところも多いが、あの時代に所謂「数寄者(今のオタク?)」がいかに多く輩出され、そうした文人らの活躍が「座・連・講」などの自主的集まりによって拡がっていったことも印象深い。
しかし私はこの著作のキモの部分は、次の「サムライ問答」にあると見ている。ここで田中氏は、明治期に内村鑑三が「代表的日本人」を、新渡戸稲造が「武士道」を、岡倉天心が「茶の本」をそれぞれ英語で書いた事~また彼ら3人は共に江戸期には下級士族だったことを指摘し、松岡氏は「彼らは欧米列強に認めてもらうために、世界に見せたい日本像や日本人像のことだけを書いた」とする。そこで抜け落ちた「江戸時代日本のいい加減さ・遊びや自堕落」の部分。松岡氏は「今の日本は内村や新渡戸が打ち出せなかったところもすべて持ち出した方がいい」という。そして田中氏が疑義を呈するのが内村鑑三の西郷隆盛・征韓論への同調と加担。キリスト者としての矛盾。また、新大陸でのスペイン人の残虐さを告発したラス・カサスを例に出し、「一体誰が日本のラス・カサスたり得たのか」と。
この辺りは本当に難しい問題で、日本が欧米列強に伍するためにアジアの植民地化へと向かう流れは、明治以降、天皇を中心とした国家体制を強固にする中、他の流れを巻き込みながら急速に推進されていく。しかし明治以降に形成された「この国の国家観」は、明らかに江戸期までのそれとは異質なもの。今も「サムライジャパン」とか普通に言われるが、そこで抽象化された「サムライ像」は、江戸期の実相とはかなり異なる。そしてそうしたイメージが今の「この国のかたち」「対外的な世論の在り様」にも非常に影響を与えている。
この著者二人が、「日本問答」「江戸問答」で繰り返し対話し提示している問題は、極大雑把に言うと「江戸時代の日本・日本人が持っていた融通無碍で自由闊達な精神を、今の日本・日本人はもう一度振り返ったほうがいいんじゃないのか」という事だろう。秀吉の朝鮮侵略から険悪な関係になっていた朝鮮半島との友好と交流を再開し、朝鮮通信使というかたちで互いに文化交流を続けてきた当時の江戸幕府・諸藩と朝鮮王朝。少なくともこの時代まで、日本人の中で朝鮮・中国に対する差別感・蔑視観等はなかった。それが明治期以降の「天皇制を核とした大日本帝国」形成の過程で、急速にアジアへの偏見・征服欲が造成されていく。松岡氏は「この問題は白村江の戦(&その敗戦)まで振り返って見直すしかないんじゃないか」と言うが、まさに古代史にまで遡って、中国・朝鮮・日本の関係を問い直す必要が今こそある~そして、「日本という国」の在り様を、明治以降の「膨張し、破綻し、失敗に終わる」姿ではなく、江戸期やそれ以前の姿から見直すというのは実に大事なことのように思える。
江戸研究を専門とする田中氏にとって、この対談は今後の自身の研究を発展させていく上で、重要なヒントを多く与えてくれたようである。博覧強記でいかようにも繋がっていく二人の第一級の知性の交流は、読み手にも多くの示唆と刺激を与えてくれる。私は今年に入ってから、この二人~特に田中優子さんの研究と論考にすっかり「魅せられて」いる。まだまだこの二人の「沼」にハマり込みたい。そんな風に感じる今日この頃である。