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脳のSIMロックフリーのおはなし
人間は1日に35000回判断をしているそうだ。
「え?そんなにしてないでしょ?」と感じる人も多いかもしれないけど
例えばインスタなどSNSを流し見しているときですら
「見る見ない」
「興味あるない」
「可愛い可愛くない」
などの判断を無意識的にしている。
もしかすると35000回どころの話じゃないかもしれない。
あなたはどのように判断しているか
そんな判断を常にしている僕らは「何を基準に」判断をしているのだろうか。
実はその基準自体が操作されていることが多い。
というよりも「わたし」自体が操作されているのだ。
自分が「これが欲しい」と思ったことは実は「これが欲しいと思わされている」に過ぎない。
ここが理解できるかどうかは大きく分かれる。
「いやそんなことはない」と多くの人は考える。
それはそうだ、あまりにも当然すぎるしあまりにも強力にインストールされているから。
この「思い込み」のSIMロック解除からすべては始まる
行動経済学の本を1冊でも読めば、またはその実証実験を実際に体験すれば
人間が「衝動的かつ感情的かつ操作されやすい」存在だということはすぐに理解できると思う(百聞は一見にしかずなのでCAMPでは実際に体験してもらっている)。
だから絶対に読んでいただきたいのは行動経済学や認知学の本。
そして知識としてではなく体験として知って欲しい。人間は体験しないと分からない世界があまりにも多いことを忘れてしまっている。
知性ですら「思い込み」に左右されてしまう。
まずこの思い込みのSIMロック解除をしないとキャリアの縛りからは抜けれない。
二元論という思考パターン
次に「無意識化レベルまで刷り込まれたレイヤーを知ること」が必要だ
その際たるものは二元論を用いた思考パターンだ。
二元論とは、世界や事物の根本的な原理として、それらは背反する二つの原理や基本的要素から構成される、または二つからなる区分に分けられるとする概念のこと。例えば、原理としては善と悪、要素としては精神と物体など。二元論的な考え方は、それが語られる地域や時代に応じて多岐に渡っている。
僕らは幼少期から「ヒーローと悪の枢軸」との対決をテレビで見てきたし
学校では点数というラインによって「優秀と落ちこぼれ」という線引きをされてきた
社会に出ても
「出来るやつと出来ないやつ」
「使えるやつ、使えないやつ」
「出世するやつできないやつ」
「お金持ちと貧乏」
「幸せと不幸」
テレビを見れば
「理想のライフスタイル(広告主の意図に引用された)」が提案される
「善悪の基準(評論家や専門家が意図された通りのコメントで)」押し売りする。
このようにこの世界の360度殆どのことを無意識的に二元論で思考させられ、またしてしまう。
これは意識の外側にある感覚で、思考のスタートからすでに「存在してしまう定規」のようなものだ。
だから疑いもしないし、そもそも思考のスタートなので枠外だ。
人間の視野で例えるなら視野の外側(つまり後ろ)の話なのだ。
自然界にない思考パターン
これが曲者なのだが、そもそも二元論という考え方自体は「自然界にはない」。
これが判断基準を考える時にそれを解く鍵となる。
僕は今年の仕事始めの日「孟子と出会った」
”孔子”から学んだのは秩序であった。
親や年長者を敬う姿勢や礼儀、仁義などだ。
”孟子”からは「自然」ということを知った。
それは、人間もまた自然だという概念。
1を作ったことで数学が生まれた。
しかしそれは分断を引き起こす概念でもあったという。
これは人間の知能の発揮を進めることと人間が自然から乖離していくことがそれぞれ影響していた。
テクノロジーを極めることは人間の持つポテンシャルの最大の発揮であるが、同時に自然破壊をももたらす結果となった。
という感じ。
何が言いたいのかというと我々の生きている世界、宇宙は自然の法則に従って存在している。
部品の一つが欠けても動かない、もしくは壊れてしまうように全てが自然の歯車として存在している。
これを調和と呼ぶのかもしれない。
その調和は二元論の構造にはないということだ。
良い悪いもないし善悪もない、左右もないし白黒もないということだ。
厳密にいうと二元論風に見えることはあっても二元論は存在しない。
よく考えてみたらわかることだと思う。
ホワイトボードに書いた黒のペン筋は虫眼鏡で見たとしてもグラデーションであるはずだ。
空気と肉体も別のように見えるが常に酸素は肉体に取り込まれ血液に溶け込んでグラデーションを描いている。
量子力学的に捉えたらエネルギーに過ぎないということは科学的にも証明されているということはなぜ広く知れ渡らないのだろうか。
今朝書きたかったことは何かというと「判断基準」について。
いかにして判断するか?ということだけど僕自身が今までの人生で行ってきた判断の仕方が今になって「そういうことか」と腑に落ちてきた。
僕は人生の大きな岐路の時になればなるほどどう判断してきたかというと
祖母が話していた言葉に従ってきただけだった。
「二つ道があったら辛い方を選びなさい」
たったこれだけ。
正確にいうと「辛いと感じる方を選びなさい」だ。
これを今までの人生の岐路で選んできて、結果的にはとても楽しかった。
そして先週思ったことが上記につらつら書いたような先入観と二元論から自分を離脱させるシンプルな方法だったのだと思う。
ついつい人生の帰路では先入観という土台の上に二元論(良し悪し、効率いいか悪いかなどなど)で考え込んでしまう。
この思考パターンが悪いというわけではない。
しかし、その思考パターンの延長戦にあるのは先入観と二元論の世界での結果がでるだけである。
つまりキャリアに縛られている状態が続くということ。
この自然界の法則に調和したものなのかどうかは不明だけど、少なくともその思考パターンから脱却するには「選ばない方を選ぶ」という選択が効果を発揮する。
マトリックス3を観てほしい。
最後にネオがとった行動はまさに言わんとすることだ。
自分の脳は総力を上げて論理的で合理的な解を算出してくる。
しかし、それすらも疑うということ。
本当に心の奥底で「感じている」ことは何か。
それは「選ばない方」に潜んでいることが多い。
なぜなら脳はレイヤーと二元論である程度のバイヤスが掛かっているので、それが指し示す方向の逆にこそ「望んでいること」が潜んでいる可能性があるということ。
そしてあらゆる場面で二元論を無意識的に行動している(させられてしまう)ことから一歩抜けてみよう。
抜けるというのは二元的な発想を生み出すから注意深く。
脳のSIMロック解除といったらわかりやすいかもしれない。
キャリアフリーで物事を思考するということだ。
HFCAMPはそんなことを学び体感し価値創造する場というおはなしでした(宣伝になってしまった)