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それは目の前を「何食わぬ顔ですぎていく」というはなし


白味噌はなにとつながっているのか

今朝、食卓に白味噌のお味噌汁が出た。
「げんさんのお母さん白味噌のお雑煮つくってくれたね」と奥さんが昔を懐かしむ。
「そんなことあったっけ?」と僕は”旦那あるある”を披露する。
「なんで京都の正月は白味噌なんだろう」と息子が話を展開させる。
ggrks(ググれカス)の名言にならって僕は静かにググってみた。


「わからないこと」とは”未だ見ぬステージ”との出会い

養老孟司さんの本を10数年前に買ったことがある。
今でもその本のことを忘れていないのは”理解できない”箇所があったことが鮮明に記憶されているからだ。
思考の繊維が縦横に張り巡らされて、その複雑で単語の難度が高く”理解する”のに非常に苦労したことを覚えている。
そしてその本を途中で放棄した。
しかし「難しい本だな」と読むことを放棄したわけではなく心中は新鮮な喜びが生まれていた。
「わからないことってまだまだたくさんあるんだなぁ」
という
”県大会から全国大会に出た”ような
”難易度が上がり急激についていけないステージにたったゲーム”のような
”キレキレで視野の広い同僚と会議中に感じる世界”のような
”ピカソの絵を目の当たりにした”ような
そんな新たな領域の拡張を予感した新鮮な喜び。


脳に引っかかっていることは時空を超え再び突然現れる


今朝朝4時に起きて最初に目に止まった動画。
養老孟司さんの名前の読み方すらさっきまで知らなかったのだから検索したわけでもなく。
なんでこの動画が目の前に現れたのかは分からない。
しかし”自然”というキーワードにつられて動画を拝見した。


キーワードとは「なんだかわからんが気になりすぎる言葉」

2020年の仕事始めの朝の出来事。
京都駅から45分かけて歩きながら事務所に向かうのが常な僕が道中のおともに選んだのは”孟子”を解説するYouTube動画。
聴きながら歩いていたら脳天に稲妻が走った。
そこから導き出されたキーワードは”自然”だった。

キーワードの痕跡を残すことは意味がある

その影響から書き初めは”儘”とした。

まま【儘】
① 成り行きに従うこと。他のものに任せ従うこと。
 「誘われる-、ついて来た」 「足の向く-に歩き回る」
② 思いどおりであること。
 「 -にならない世の中」 「今夜一夜は身どもが-ぢや/狂言・地蔵舞 虎寛本」
③ 元のとおりで、変えてないこと。そっくりであること。
 「見た-を話す」 「昔の-で少しも変わらない」
④ 状態が続いていること。一つの動作・作用が終わり、それに続くはずの動作・作用が始まらないこと。
 「受け取った-積んである」 「借りた-だ」 「立った-眠る」
⑤ 成り行きにまかせて、結果に頓着しないこと。どうなってもよいこと。ままよ。 「ただ読めずと-/胆大小心録」
⑥ ある理由によってそのような事態になったこと。
 「太刀が持てもらい度さの-でおりやる/狂言・二人大名 虎寛本」
⑦ (普通「ママ」と書く)書物の校訂などで、原本どおりであること。 → ままに 〔「ままにならない」の場合、アクセントは [0]〕

”在るが儘”や”我儘”の”儘”だった。


「感じる」ということは何よりも強いちから

昨年秋頃、宇多田ヒカルの”道”を聴いていて心身が震える感覚を得た。

”道” 宇多田ヒカル

黒い波の向こうに朝の気配がする
消えない星が私の胸に輝き出す
悲しい歌もいつか懐かしい歌になる
見えない傷が私の魂彩る

転んでも起き上がる
迷ったら立ち止まる
そして問う あなたなら
こんな時どうする

私の心の中にあなたがいる
いつ如何なる時も
一人で歩いたつもりの道でも
始まりはあなただった
It's a lonely road
But I'm not alone
そんな気分

調子に乗ってた時期もあると思います
人は皆生きてるんじゃなく生かされてる
目に見えるものだけを
信じてはいけないよ
人生の岐路に立つ標識は
在りゃせぬ

どんなことをして誰といても
この身はあなたと共にある
一人で歩まねばならぬ道でも
あなたの声が聞こえる
It's a lonely road
You are every song
これは事実

私の心の中にあなたがいる
いつ如何なる時も
どこへ続くかまだ分からぬ道でも
きっとそこにあなたがいる
It's a lonely road
But I'm not alone
そんな気分

この歌詞を何度も何度も繰り返し聴いて最初に考えたのは歌詞中に出てくる”あなた”とは宇多田ヒカルの母親のことかなと感じた。
しばらく聴き続けていて、はたと閃いたのは”あなた”とはわたし(自分自身)のことかもしれない。
ということだった。

そして今、この”あなた”の捉え方がまた新しい感覚に見舞われている。

「あたりまえを疑う」とは「感謝する」と同義語

昨日、車を運転していてボーッと考えていたこと。
繰り返しそのことは考えに浮かんでは消えていく些細なこと。
それは
目の前のアスファルトは自然ではないということ。
当たり前のように便利に舗装されている”道”を毎日歩いているけれど本来は土や砂利、雑草が生えてくるような状態が自然なんだよなぁという事実。
この道が土だったら洗車めちゃくちゃしなきゃならんだろうな、ありがたいなぁとふと感じていた。
その後からふつふつと
不自然と自然とは。
日々生きている中で目に見えている世界は?
そんな中で感じる感覚は?
そこから出てくる思考の襞から生じる胞子はどんなものなのか。
という思考が走っていくのを見届けていた。

「感じる」とは「違和感」から生じることが多い

HUMANFORUM CAMP全体の”しつらえ”にあるのは”予定調和ではなく予定不調和”というキーワード。
これが環境設計の大きな肝となっている。
 KPIや具体的なマイルストーンも推進力には必要だという考えももちろん持っているけれど、違和感がある。
腑にストーンと落ちない感覚がどこかにある。

予定不調和。
ラグビーボールのように思惑通りにいかないことを楽しむ。
というより
思惑の外側にある全てをJUMPさせる”何かの存在”への期待。
人間が集い、フレームワークの範疇で何かをするのではなくフレームワークの外側の領域に期待をするということ。
これは誰にも想像すらできない。
というか余裕で想像を超えてくる。
このことに対する無条件の認知。
それこそ”自然”なのではないだろうか。

点と点が線とつながっていく感覚を今朝得たので書き連ねてみました。
これの読み時はおそらく人によって異なるだろうから敢えて”捉え方”は書かないでみたという朝の出来事。


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