84歳寅年京子ばあちゃんの老いるを楽しむを書き留めてみる その十二
珠算塾をしていた頃、生徒は小学3年生から5年生までが一番多かったです。まだ今のように学習塾に通う子供は少なくて、まさに「読み書きそろばん」と言って、習い事と言えばお習字とそろばん、そしてピアノでした。娘たちがちょうどその年代でしたので、二人の同級生達がたくさん来ていました。一番多いときの生徒数は99人。家の前は自転車がずらっと並び、今ほど車が多い時代ではなかったので、子供達が道を占拠して遊んでいました。そろばんを習いに来るのが半分、友達と遊びに来ているのが半分という感じで、1時間くらい前に来ては教室の前の道路で、ボール遊びをしたり、竹馬をしたり、女の子はゴム飛びをしたり、とにかくにぎやかでした。
年に一度秋に市の珠算大会があるのですが、うちの娘たちはお父さんが珠算協会の役員なので上位に入らないと恥ずかしいとプレッシャーをかけられ、夏休みには小学生なのに岸和田産業高校の珠算部の人たちと一緒に練習させられていました。夫は絶対に勝て!とよく言っていました。最高は準優勝だったと思いますが、2位、3位と必ず入賞はしていました。娘たちは「パパを喜ばせないと!」という使命感に燃えていたように、私には見えました。長女の負けず嫌いは、その時に身についたのかもしれません。
教室の入り口の正面のお向かいさんは個人の家の玄関先を改築して小さなお好み焼き屋さんをしていて、うちの生徒たちが帰りにたこ焼きを食べたりしていましたが、一番の常連はうちの長男かもしれません。夜遅い夕飯を待ちきれなくて、よくお世話になっていました。
お寿司屋さんも歩いて5分の所に2軒あって、お魚好きの夫の夕飯のお刺身はいつもどちらかに頼んでいました。あの頃は忙しくてゆっくり買い物に行くこともできなかったので、とても助かりましたが、よく考えたら贅沢でしたね。
昭和の時代、大黒柱の食事は、やはり特別でした。必ずお刺身とお酒とおつまみがあるのは当たり前で、子供達や年寄りとは違うものを用意しました。だけど私自身食べることが好きだったので、苦にはなりませんでしたね。食べたいものが毎日浮かびましたので、夕飯が楽しみでした。
週に2回、珠算塾が終わって夕飯の時間になると、お仕事帰りのOLさんが来て、2階の和室で母のお琴と三味線の教室が始まります。
そして週に1回、1階の居間でヤマハから先生が来てピアノ教室もしていました。
もちろん娘たちはピアノもお琴も習いました。長女はピアノもお琴も文句も言わずおけいこに励み、お琴は師範のお免状もいただいて、学校の成績も良く、足も速く、私の母が来た時には一緒に夕飯の支度をし、姑のお世話も手伝ってくれていました。長女がいてくれて、本当に助かりました。問題は次女です。学校の成績の悪いこと。5段階でしたが、一番良い時で、音楽が5,それ以外は全部3。悪いときは音楽が4,体育は2,理科も2。先生からの通信欄には、「明るくて、人の面倒はとても良く見ています。もう少しお勉強を頑張りましょうね」と、ほぼ6年間同じでした。ピアノもお琴もイヤイヤなのが態度にでるし、おけいこはほとんどしないままレッスン日がきてしまうので、また叱られる…の繰り返し。じゃあ辞めるかというと、どうも嫌いではないらしい。私にはどうでもよいことなので、放っておきましたけど。
ただ、子犬が捨てられていると放っておけず必ず拾ってくるのは次女でした。たぶん優しい子なんでしょう。面倒は見ませんので、結局私が全て世話をしましたけど。
そういえば、毛の長いちょっと洋犬が混じった子犬を拾ってきたときは、欧陽菲菲という歌手の「雨の御堂筋」が流行っていたので、「フィーフィー」と名付けました。外で飼っていて翌年妊娠してしまい、3匹の子犬が産まれました。みんなとっても可愛くて、その年は新・御三家が流行っていたので、一番かわいい子に「ヒロミ」、2番目が「ヒデキ」、そして「ゴロー」と名付けました。庭の犬小屋の中でフィーフィーがちゃんと子育てをしていましたが、ある朝フィーフィーのご飯を持っていくと、まだ生まれて1ヵ月も経っていなかったと思いますが、ゴローしかいません。ヒロミとヒデキは盗まれたようでした。3匹もお世話するのは大変なので、娘たちは悲しんでいましたが、私はほっとしました(笑)
あら、もうこんな時間… タローがご飯だと呼んでいます。
夫のために、結婚してから亡くなる数日前まで必ずお刺身を用意していましたが、今夜は自分のために… いただきます♪