ある二人の物理学者について
今日は何の日?
本日12月5日は、二人の偉大な理論物理学者の誕生日である。
量子力学の祖の一人 Werner Heisenberg (ハイゼンベルグ) と、その師、Arnold Sommerfeld (ゾンマーフェルト) である。ハイゼンベルグと言えば量子力学の文脈で必ずと言っていいほど話題に上がる有名人だが、その師ゾンマーフェルトについては意外なほど知られていない。そこでこの二人の関係性を中心に、量子力学黎明期の一瞬を切り取ってみたい。
はじめに
本記事は、ゆる言語学ラジオ非公式Advent Calender 2023に寄稿するために執筆された。各々が独自の方法でゆる言語学ラジオへの愛を表現する中で、あくまで物理の話を続けることに若干の抵抗はあるが、人に語れるうんちくもいくつか含むので、お付き合いいただけると幸いである。
アドベントカレンダーに寄稿するにあたり、昨年も同様の手法を取った。このまま続ければ、早晩、12月生まれの物理学者について語りつくしてしまうかもしれない…。が、まだいける…はず…。
本記事のために簡単に下調べをしたものの、裏付けが甘い部分も多く、多分に筆者の想像を含む。参考文献はほぼ2次資料であるし、無論、科学史は専門外である。したがって、本記事は単なる物理学者の紹介記事と思って読んでほしいし、誤りの指摘・訂正は大歓迎だ。コメント、メッセージなどでお知らせいただきたい。
量子力学の夜明け前
ゾンマーフェルトは1868年、ハイゼンベルグは1901年、いずれもドイツに生まれた。アルフレッド・ノーベルが1895年にこの世を去り、初代ノーベル物理学賞がレントゲンに授与されたのが1901年、そしてアインシュタインの "奇跡の年" が1905年であることを考えると、まさに古典物理学から現代物理学が生まれる瞬間を生きた二人であることがわかるだろう。
上述のように、ハイゼンベルグに関しては様々な逸話が随所で語られ、物理学を専門とする者でなくてもその名を耳にしたことがあるかもしれない。一方ゾンマーフェルトは、現代の教科書ではあまり目にすることがない。僕の記憶をたどっても、物性を勉強していたころに、ゾンマーフェルト展開という技法を学んだくらいだ。
例えば量子力学においては、ボーアの量子条件を一般化し、ボーア・ゾンマーフェルトの量子条件を示したが、これはのちにアインシュタイン=ブリルアン=ケラー量子化条件として拡張された。現代的な多くの教科書では、代わりにより整った理論である正準量子化条件を扱うため、ゾンマーフェルトの量子条件に触れることは少ない。このように、現代物理学への過渡期に彼が残した功績の多くは、目に見えにくい形になってしまっている。
一方で、ゾンマーフェルトの名を冠さない功績は数多あり、ここにあげるだけでも記事が終わってしまう。大学1,2年頃に学ぶ内容からいくつか挙げると、軌道磁気量子数、スピン量子数、微細構造定数などはゾンマーフェルトの仕事である。興味のある方は、上のリンクからゾンマーフェルトの "known for" の項目を眺めてみてほしい。これらの実績は、彼が間違いなく、同時代の偉人たちに引けを取らない一流の物理研究者であることを示している。
理論と実験
今でこそ理論研究は実験研究と対をなす存在であるが、当時はまだ「理論物理学者」という地位は確立しておらず、理論研究は、実験に比べれば本質的ではない研究とみなされていた。このことは、ノーベル物理学賞の初期に理論だけで受賞した人がほとんどいないことからも窺い知れる (量子力学の成立とともに、理論物理学は急速にその立場を確立していくのだが)。
そんな折、ミュンヘン大学で教鞭を執るゾンマーフェルトのもとに、ある若者が訪ねてきてこう言った。
若きハイゼンベルグである。ゾンマーフェルトは「まずは物理学一般を学ぶべき」だといさめたが、結局自分のゼミへの試験的参加を許可した。
この選択が正しかったことは、その後の歴史が証明しているといえるだろう。ゾンマーフェルトはハイゼンベルグに対して以下のような評を残している。
ゾンマーフェルトのハイゼンベルグに対する評価は、彼が与えた研究テーマからもわかる。これは、スムーズに流れる流体 (層流) がランダムな流れ (乱流) に転移する点を調べるというもので、非常に難しい問題であることが知られており、結果的にはハイゼンベルグでも近似解を求めるにとどまっている。実際この問題は130年にわたって未解決であり、近年、東大の研究でようやく解明された。
あくまで理論家
一方でハイゼンベルグの実験嫌いは相変わらずだったようで、ヴィルヘルム・ヴィーン (こちらも有名人) による実験の実習はひどかったらしく、たいへん不興を買った。わずか3年で博士論文を提出することになった際も、天文学の質問で躓き始め、実験物理学ではしどろもどろであったようだ。干渉計はおろか、望遠鏡や顕微鏡といった一般的な装置の扱いにも戸惑い、蓄電池の仕組みを問われても答えられず、審査官であったヴィーンは怒り心頭に達したという。
審査はゾンマーフェルトとヴィーンの論争に発展し、実験物理学と理論物理学の相対的な重要性にまで言及する事態となった。結果として成績は6段階評価の3段階目となった。これはゾンマーフェルトによるA評価と、ヴィーンによるF評価の中間であった。
これにはさすがのハイゼンベルグもショックを受けたようで、試験後のパーティからもそそくさと帰ってしまい、荷物をまとめ、次の雇用主に決まっていたゲッティンゲン大学のマックス・ボルンを訪ねてこう言った。
「博士論文審査で大失敗をしてしまったのですが、まだ雇ってもらえるでしょうか?」
幸いにもボルンは、ハイゼンベルグが答えられなかった質問について慎重に尋ね、それが少々難しい質問であったとわかると、雇用をそのままにしておくことを約束した。
ドイツ物理学の黄金時代
藍より出でて
実はここまでの話に出てきた多数の物理学者のうち、ノーベル物理学賞を受賞していないのは、(創立者であるノーベルを除けば) なんとゾンマーフェルトだけである。
上述のゾンマーフェルトのWikipedia記事で、もう一つ、ひときわ目を引く項目がある。"Doctral students", "Other notable students" の項である。大学で物理学を学んだものなら、ここに記された名前の半数は目にしたことがあるだろう。彼は偉大な研究者でもあり、同時に偉大な指導者でもあった。
ゾンマーフェルトはハイゼンベルグの他にもパウリ、ドバイ、ベーテの3名のノーベル物理学賞受賞者を博士学生として輩出しており、同じく受賞者であるポーリング (化学賞・平和賞)、ラビ、ラウエの3名はゾンマーフェルトのもとでポスドク研究員として働いていた。自身はノーベル賞を受け取らなかったものの、実に7名ものノーベル賞受賞者を輩出し、その他にも多くの有名物理学者を育てたゾンマーフェルトが偉大な指導者であった点は疑いようがない。ボルンやアインシュタインからも、「才能ある若者を発掘して伸ばす能力」を評されている。大学嫌いのアインシュタインでさえ、「あなたのもとで学べたら」と言ったという。
ゾンマーフェルトは、ドイツの発展のため、教育にその情熱を費やした。その結果育てた多くの学生たちは「ミュンヘン学派」を形成し、ドイツ物理学の一時代を築いた。
戦中にはユダヤ人の教え子たちが亡命先で就職先を確保できるよう推薦書を各所に送り、国内では親ナチスの「ドイツ学派」の逆風にさらされながらも信念を貫き、戦後も死の直前まで教科書を執筆するなど、教育に尽力し続けた。遠くなった耳のために事故に遭い、この世を去ったのは1951年のことだった。
同じドイツの物理学者であったフントからゾンマーフェルトへの手紙の中には、次のような一節がある。
参考
蛇足
一般に、偉大なプレーヤーと偉大な指導者は必ずしも一致しない。しかしながら、当然、反例も存在する。
この記事を読むようなもの好きの諸兄の頭には、自身も大いに活躍しつつ、順調に事業を拡大するある茄子、もといある男の顔が浮かんでいることと思うが、これ以上の解説は野暮というものだろう。ゾンマーフェルトにも彼にも憧れと嫉妬の念は禁じ得ないが、決して小さい虫などと呼んではいけない。
僕も彼同様、「世の中にもっと面白いコンテンツが増えるべき」と思っているし、また一方で、真に "面白い" とは知的好奇心を刺激するもの、ある程度の積み上げの上に現れるものであると信じている。「理論と教養にしか興味がない」などとのたまう度量も実力もないが、単なる「面白いコンテンツ」を超えてもっと貢献したいという思いから、何とかここまで活動を続けてきた。折しも、我々の活動開始から1年以上が過ぎた。幸いにも、我々の活動に賛同し、支援してくれる人も現れた。
彼本人のチャンネルを除き、まだまだ発展途上の未熟な集団であるが、彼や彼の周りの「ゆる学派」とも言えるこの一団 (ゆサDも当然その一部であろう) が、同様のコンテンツを求める人々に供給され続けること、そしてこのネット社会に一時代を築くことを願ってやまない。たった今がネット教養時代の黎明期かもしれない。
さすがに無理がある我田引水が目に付くようになってきたので、この辺りで筆を置く。
最後まで駄文にお付き合いいただいた皆様に感謝を。
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