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Roles of Record Shop

北海道・知床、地元斜里も例外なく日に日に寒さが和らいできて、季節の変わり目を実感する。(気圧の変化で偏頭痛持ちにはちょっと厳しいが)と同時に、寒の戻りというのか、日中の柔らかい日差しと裏腹に北風がまだまだ冷たく、流氷も岸に戻ってきていて真冬の敷き詰められた大地のようなそれとは違う、白い氷と氷の隙間に鮮明なオホーツクブルーが織りなす、個人的には一番好きな美しい景色が広がる。


そんな中、コロナ騒ぎはまだ収束の兆しが僅かで、不安を打ち消したくなる衝動から情報を取りに行けばドツボにハマり、精神が病み、さらに先の不安を見越すと無駄な支出も控えるようになり、政府の頼りない判断も加味され、不安と気が病む状況はおそらくもうしばらく先まで続くだろう。


自分自身も、収入源のメインであったダンサー業は、全くと言っていいほど業界自体が機能不全を起こしていて、世間の不安が解けない限りは再開の目処もたっていない。

「集まる」ことで成り立つ業界で、「集まる」ことを懸念される現状で、無責任なことも言えないので仕方ないと言えば仕方ない。

世間ではネットを使ったリモートレッスンを実践してるダンサーもちらほら見かけるようになってきた。

ただ、自分はダンサー業の合間を縫ってやっていることが二つある。

一つはロゴデザイン業で、もう一つはアナログレコードを中心としたセレクトミュージックショップを経営している。音楽と相性の良い雑貨も扱うようにしている。

結果的には、踊れなくても音楽メディアを売って収益を得る(すずめの涙ほどの)ことも可能だ。

デザインは在宅ワークだからコロナとは一見すると無関係の仕事のように思えるが、自分のクライアントは企業より個人がメインの為、急いで仕上げて収入にしようにも、社会全体の消費が落ちている中で、剛腕に請求書を送りつけるのも気が引けてしまい、厳しい納期がある仕事以外はなるべく様子を伺いながら進めれるところまで進めて仕上げをストップしてる案件が溜まっている。

どの道、自分が選んだ仕事のどれもが、生活に必須な要素のものではない、という事が前提なので有事の際には何よりも優先で淘汰されてしまう。

311以降スローガン的に発生した「今自分にできること」というワードにも様々な「含み」を持つようになったが、それでも、どこかで誰かが今苦しい思いをしてる人がいるというイメージを持っていると、自分の中に何かが動き出していく感覚が昔も今も変質することなく湧き上がる。


レコ屋をやっている。

元々の発端はエゴだと思う。生活の優先順位的には低い分野の商売だ。ダンスもそうだしデザインもそうだ。経済生活の中で絶対必要と答える人は稀なことを、わざわざ人生の大半を使って積極的にやってきているのだ。

なぜか?

「好きだから」って理由はもはや前提に過ぎない、人生の大半を使ってやっているものを一人称的に「好き」だけで済ますのは社会に対して申し訳ない。じゃぁなんだろう?と考察し始めてもう何年も経つ。

答えは大分見えてきた感があり、それは、僅かでも誰かの気持ちをサポートできる役割が音楽や遊びにはあって、それは目に見えるものではないが、必ずどこかで誰もが音楽(もしくは音)を通じて何かの感情に出会うことができ、癒されたり奮起したりという具合に、実は人にとっての影響力が控えめに言っても大きいと感じる。

耳が体に備わってる以上、意思とは関係なく音が入り込んでくるのだ。

せっかくならノイズよりもいい音を取り込みたいと直感的に考えるのは自然の衝動と言ってもいいのではないか?

ウチの店が所在する北海道の右端は、お世辞にも音楽が盛んな地域とは言い難い。もちろん深く探求するプレーヤーは少なくはないが、リスナー・クラバー・愛好家の全体的な質はお世辞にもいいとは言い難い。どこの田舎地方でも抱えてるオーディエンスクオリティー問題はここ道東も例外ではない。プレーヤーの好意でギリギリ成り立っている。

”FLY GIRL”のような、オーディエンス(パーティー)社会のモラリズムやセンスをプライドを持って追求するような向きは皆無に近い。

仕方がない、’遊び’を必要とする人がいても、点在していて土壌が固まらないのだから。


では、今回のコロナ騒動の中で、自分が営んでるレコード屋商売が不必要か?と問えば一概にそうとは言い切れない。

ダンス業をしばらく休業してる間は、積極的に店をオープンする事が出来たので、来客の期待をしないまま、できる限りの善意を尽くす形で入荷商品を棚に投下し、SNSの更新頻度を伸ばした。

結果としては、店の売り上げはそこそこであり、来客数は普段の倍以上になっている。誤解されないように一言添えると、斜里という町は、このコロナのタイミングに際して観光産業と商業を除き、さほど大きい影響がない。

主産業は漁業と農業なので、そもそも冬の期間は共にストップしているし、客を相手に対面商売するわけじゃないので、都市部のそれに比べると緊張感はそれほど感じない。高齢者の発言権が高いので、TVや新聞の報道のペースと大体ハマるから影響の読みが効きやすい。


話が逸れたが、レコ屋をやっている。

様々な人間模様や社会様式がこのパニックの中で浮き彫りになる上で、上に書いたような仮説がハマらなかった嬉しい誤算があったのは事実だ。

売り上げにはそれほど振るわなかったにせよ、結果として普段は訪れないようなお客さんまで来店してくれて、様々な情報交換ができた。

一人で悶々とするよりは、誰かと過ごし意見を交換してる方が話題の質に限らず健全な精神と冷静さを取り戻す事ができる。

こんな時だからこそ、情報という脅迫にペロッと食われて恐怖に心を支配されるくらいなら、お互い衛生面には気を配りながら、ウチのようなのんびり過ごせる音楽空間の中でだべっている方が、精神衛生的には健全ではないか?と考える。

こんな感じのHIPHOPで首を揺らしながら。

自分的には、知床でレコ屋をやると決めてから、いくつかのテーマがある。音を楽しむ絶対数が極めて少ないこのエリアで、少なくとも実店舗の音楽屋を楽しんでくれて、ソフトを買うだけじゃなく、「会う」ことを目的に訪れてくれる人達がいる。そこから生まれるコミュケーションを通じて文化に昇華したいという夢めいたものを今でも捨てていない。それは、若かりし頃の自分の良き実体験が、衝動を動かしているのかもしれない。

若かりし頃、服屋にしてもそうだが、レコ屋にしても文化発信している店に独自の魅力を感じ、その店のカラーや人を通じて色んなマナーやアティテュードを遊びの中で学んだ。ロクに持ち合わせもないガキの自分に優しく接してくれて、曲はもちろん、その他の有益な情報を教えてくれたりした嬉しい経験は後々まで覚えているものだし(逆も然りだが)その価値はアンダーグラウンドといえど一人の少年には価値の高い経験なのだった。

「人生の成功」を今の自分が瞬時に発するとするならば、「経験」と答えるだろう。それは大きい夢を掴んだとか、大金を掴んだとかではなく、自分がその未知の世界に好奇心任せに飛び込んだ先にある、人との出会いとか、道続きにある経験だからだ。美しい言葉を発して申し訳ないが。。。

良い経験をしたら、その同じような良い経験を誰かに味わってもらいたくなる。扱う商品が文化に纏わるのだから、目先の収益より長い展望での文化形成の方にクロスフェーダーを寄せるのは当たり前といえば当たり前なのかもしれない。

世界中にある全てのグッドミュージックを取り扱う個人店なんて不可能に近いが、僅かながらの個人的セレクトと人柄を求めて訪れてくれる人には、なにか相手にとって有益な情報がないかと会話の糸口の中で検索するし、自分が経験した喜びのようなものを提供したい、共有したいと常に思っている。

便利な世の中の中で、欲しいもの(と思わされてるのかも)は手元のスマホで簡単に検索ができ購入する事ができる時代だが、サーチをかけるには的確な「単語」が必要だし、その単語は人から人に伝わるアナログなコミュニケーションが混在して成立する(余程のサーチセンスがない限り)

情報社会と言えどネットにはなかなか載らない情報には、この時代に希少な価値が生まれると信じているし、現に中古レコード市場ではまだまだ先の価値を見出すお宝はネットには載りきってはいない。誰も知らないであろう秘密のグルーヴを探すには、まだまだ店に足繁く通う必要があるには確かなのだ。逆を言うとネットに載るものというのは売れ筋を意識したブティックのようなもので、ニューディスカバリーを探すにはネットより断然足なのだ。

旅行巧者がまだ誰も見てない絶景を追い求め、旅を続けるのに近いかもしれない。


また、ウチの店は、HIPHOPとその周辺(SOUL・FUNK・JAZZ・和モノetc,)の音楽に注力してる側面があり、ジャンル外の人が取っつきにくい場合があるようだが、その分、店が不得意なジャンル(ロックやテクノなどのクラブミュージック)のレコードはかなり安価で放出している。

先日、お客と会話してる中で、自分はジャンル外(HIPHOPではない)と告白しながらも「積極的に掘りに来るのは、自分との会話を参考にして商品を購入し、不得意ジャンルだと思っていたが徐々に理解が深まるのが楽しい」と、嬉しい言葉をいただいた。自分を信頼してくれてオススメから紐解き、自分の好きの幅を広げてくれたというのは、「冥利に尽きる」以外の何物でもない。

音楽は決して詳しくある必要などないと考えている。何より大事なのは、自分を楽しいとか癒されるなどの気持ちにしてあげることだし、その矛先が音楽なのであれば、それを楽しむ権利は誰にでもある。

お客さんが、音楽の未知の世界に飛び込むのに緊張や不安は自然だと考える中で、知識自慢欲に溢れた人はどの業界にでもいる。相手にしないリストにでも入れておけば良いし、自分自身も先に知識を「べしゃる」ことはしないよう常に心がけている。自身もそうであるように、自分の大切な音楽は必ずしも金額に比例はしない。レアかどうか?とか、他人の定規で測ってもみんなが欲しがるものをゲトるという欲が先行して、冷静になった時には必要のないものも多かったりするからだ。

大切なレコードがCDが相場100円の価値だとしてもいいじゃないか、と思うのだ。

中古レコード市場には「安かろう悪かろう」は当てはまりづらい。(高いレコードにはそれなりのクオリティーがあるのは間違い無かったりするが、それだけではない)

大切なのは、その一枚が自分にとってのスペシャルであるかどうかだと思う。


自分が思う、地方におけるレコ屋の役割とは、決して詳しくない人でも誰一人排除せず、共通の糸口を見出して共有し、お互いの生活にとってプラスになり得るスパイスを紹介したり、コミュニケーションから音楽文化の発展に協力をし、リビングに飾る花のように、生活のサイクルに一つの彩りを提供することだと思っている。

これからも、その人にとっての特別な一枚に巡り会えるような店作りを常に心掛けていきたいと思っている。



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