書くということ
仕事を変えて二週間が経ちました。
立ち仕事からオフィスワークへ。
がらりと仕事内容が変わりました。
新しい会社での私の唯一の戦力は、パソコンのタイピング。
ブラインドタッチができることくらい(笑)
右も左もわかりません。
だけど、毎日が新鮮でとても楽しい。
地方から都心に来て、家が変わり、通勤スタイルが変わり、あらゆる変化がありますが。
なによりも驚いているのは、ものすごく時間が有り余っているということ。
前職を辞めみて、いかに仕事に時間や体力を奪われていたかを実感しております。
しかし、逆にいざ暇な時間が増えてみると。
ありすぎて、うまく使いこなせていない。
時間を作ってでもやりたいことをやる!という仕事への反骨精神もどこへやら。
何の線引きもなく、だらだらしてしまう。
やりたかったことはたくさんあるはずなのに。
これではいけない、と考えた末に、新しく始めたいこととして浮かんできたことの一つが、ブログを始めることでした。
目的は日々感じていることの記録と、書くことの訓練です。
私が初めて持った「夢」は物書きになることでした。
小さい頃から本を読むのが大好きで、
本当になりたい!と心の底から思ったのは、小学生の時。
当時、ものすごく面白い!と感動する本との出会いがきっかけでした。
何かに出会って、ものすごく好きだ!と感じた時。
人はその感動をどうにかアウトプットしたい衝動に駆られるものだと思います。
それは絵にかいてみることだったり、人に勧めてみることだったり、同じようにまねしてみることだったり。
どうにかして、この高まりを表現したい!と突き動かされるものではないでしょうか。
小学5年生だった私がその特別な本に出会い、そんな高揚感に満たされた時、心の奥から湧き上がって、外に出てきた気持ちは、「私もこんな本を書いてみたい!」でした。
その時から、程度の差こそあれ、ずっと文章を書く仕事にあこがれを持ってきました。
けれども、作家を目指すというのは少し特殊な道です。
弁護士や、学校の先生、医者になることとは、性質が違います。
この勉強をして、この試験を受けて、この資格を取ればなれる!というような、道筋がはっきり決まった職業ではありません。
「文学賞を取ること」が、きっとそれにあたるのでしょうけれども。
問題は何を書くのか、ということ。
これは、教科書が教えてくれることではありません。
小学生、中学生と夢を持ったまま進学してゆく中で、私は何度か物語を書くことを試み、それを楽しんできたけれど、自分の知っている世界が学校に限られているということと、自分が読んだものの模倣しかできていないことに気が付きました。
自分の内側にあることしか、書くことはできない。
中学生なら、中学生まで。それ以上の大人の気持ちや世界が想像できない。
そう、それは体験してみなければわからないことなのです。
ある程度の歳を経て、あらゆるものにぶつかってみなければ、それ以上の話しは書くことができないのではないか、と悟った瞬間でした。
様々な作家の経歴をみると、その多くは異なる職に就いた過去を持っていることが多いです。
国語の先生。
外科医。
OL。
学芸員。
新聞記者。
もちろん例外もあるでしょうが、誰もかれもが、文章を書くこととは別の人生を生きた記憶を持っています。そしてその記憶が確かに作品に影響を及ぼしている。
その経験が、その人にしか書けないものを生み出すことに繋がっている。
逆に言えば、作家になると志し、それなりの歳月をかけた末、途中であきらめて、そこから何か別のものを目指すという方向転換はかなり困難な道です。
第二の人生を歩もうとするときに気軽な気持ちで医者を目指すことは可能でしょうか。
医者から作家になることはできても、作家から医者になることはできません。
ある作家は言いました。
紙とペンと想像力さえあれば、誰でも始めることができるこの気軽な夢を、人生の初めから目指してしまうことは非常にもったいないことなのだと。
物を書くという仕事は、最期の最期に遺された仕事なのだと。
私はこの考えに妙に納得してしまいました。
そして躍起になって、物語を書こうとすること、作家をめざそうとすることをやめました。
高名な村上春樹でさえ、小説を書き始めたのは30代。
超大物作家を引き合いに出すのは、なんとも恐れ多い話しですが、今はただたくさん読んで、たくさん見て、聴いて、経験して、感性を磨くしかないのだと思いました。
高校、大学、社会人を経て、今に至るまで、本をまったく読まない時期もあり、常に100パーセント追いかけていた!とは言えませんが、どうやったら面白いものを作れるのかという探求心と、文章を書くことへの愛着は潜在的にずっと頭の中にあり続けたように思います。
しかしながら、実際いよいよ30代がだんだんと近づいてきている今。
先立って書いてきた吸収期間は、今の私には甘えや言い訳のように思われる時がやってきました。
素敵な文章を書きたい、面白い話を書きたい、と頭では思っていても、実際にかいてみないことには始まりません。そろそろ潮時かもしれない。
なにかを書いてみるべきなのかもしれない。
文章というのは、様々な形があります。
大学生の頃、毎週論文を書くという授業を取りました。
新聞記事を書く授業をとりました。
キャッチコピーや商品の宣伝を書く授業をとりました。
同じ「書く」という行為一つとってみても、得意不得意が顕著に現れます。
私は、論文はかけても、後の二つはからきしダメでした(笑)
当然ながら論文のノウハウを新聞記事に流用することは不可能で、文章にはその形態にあったスタイルと書き方があるのです。求められるスキルが違います。
少なくとも、私は当時の先生の評から論文向きなのだということはわかりましたが、小説向きかは不明です。しかし、その論文だって読む人が読むと文学っぽいといわれます。
個人的には、想像力が豊富ではなく、もともとあるものを好き勝手に伝えることの方が向いているようにも思います。
大学でのこの流れを鑑み、当初持っていた作家になる!という夢は少し形をかえ、めざすべきジャンルを小説に狭めるということは、やめることにしました。もっと柔軟な気持ちになることにしました。
とにかく、形にはとらわれずに、自由に表現すること、きちんと言葉にすること、を目標にしたいと思っています。
論文の授業を持ってくれていた先生は、毎週授業のたびに書いたものに関して授業内で講評をしてくれましたが、そのことにかなり気を遣う方でした。先生の持論としては、「人が書いたものを批評するということは、その人の人となりや人間性を批評することと同じこと」なのだそうです。
だからかなり、慎重を期さねばならない、と。
先生のいうように、自分が書いたものを人に見せるということは、それがどんなものであっても私にとってはかなり勇気がいることです。
何者かを明かさずに書くという方が、どんなに気が楽でしょうか。
けれども、身近で周りの目を気にせずに、ありのままの自分として、自己表現をしている人たちを見ると、その楽しそうなことにあこがれの念を禁じ得ないこともまた事実。
おかしい!という人もいれば、素敵!と言ってくれる人もいる。
人の目を気にしない!いい意味で気にする!という方針を体現することが、私には必要だと思うのです。
「いいできじゃないと思っている作品でもいいの。どこかで誰かが気に入ってくれるから。
発表して、みんなが好きになってくれるわけじゃないけど。
でもそれを発表しなかったら、誰かが好きになってくれる機会すらないのよ。」
最近、話題のビリー・アイリッシュの言葉。
これに励ましと勇気をもらいつつ、好きなことを書きはじめてみようと思います★
最後までお読みいただきありがとうございます。