【哲学漫談】 管理社会・為替相場・死――ドゥルーズ『記号と事件 1972-1990年の対話』より
※この記事は、ドゥルーズ「追伸――管理社会について」(『記号と事件 1972-1990年の対話』所収)のパラフレーズです。
「規律社会から管理社会に移行した」と言われて久しいですね。規律社会では、人々がルールを内面化していました。たとえば、「コンビニのお菓子を万引きしてはいけませんよ」っていう親の言いつけをしっかり守り、万引きしたくてもグッとこらえる…そんな社会でしたよね。一方、管理社会では、監視カメラが町の至る所に設置されているので、そもそも万引き不可能な社会になっています。そして、「実際に万引きしていない人であっても、内心では万引きしたいと思っているのではないか」ということが、問題にならないのですね。「内心でどう思っていようと、実際に万引きしなければOK」であり、その人は善人と見なされる。良き心の育成が争点とならない、実用重視の社会であるといえそうです。監視カメラが普及する以前の規律社会では、「誰も見てないからいいじゃん。ちょっとくらい万引きしちゃえよ」とそそのかす悪魔が心の片隅に芽生えれば、心が揺らいで悪さをするかもしれないので、法律順守を心に植え付けるために人々は努力を強いられていたけど、現代進行しつつある管理社会では、監視カメラ的なものをたくさん設置すれば犯罪を防げるのでコスパがいいよね、ていう話ですね。従来の規律社会では「犯罪は悪いことであると子供にどうやって教えようか」が問題だったけど、管理社会では「監視カメラをどのように配置すれば、最小台数で犯罪抑止効果が最も高くなるか」について皆が学校でアイデアを出し合うのですね。
もちろん、規律社会から管理社会への移行は、ある日突然起きたわけじゃないですよね。規律社会の仕組みが、いつの間にか管理社会へと転用されたのですね。かつて規律社会では、悪人は監獄に閉じ込められていました。もし悪人に精神疾患がある場合は、病院に閉じ込められていました。「閉じ込める」とは、「一定の範囲内から外に出てはいけない」ということです。このように「監禁」という意味を広くとると、病人は病院に閉じ込められていたし、労働者は作業時間中は工場に閉じ込められていたし、仕事が終わると人々は全員、家族の中に閉じ込められていたのですね。
しかし管理社会では監禁のあり方が変化しました。デイケアや在宅介護に顕著に見られるように、病院と家庭が協力して(その中間に介護という職域が新たに生まれることで、両者の協力はスムーズになりました)、高齢者や病人を管理するようになった。せっかく退院できてもどこまでも医者の手が追いかけてくるし、入院したことがない健康な人でも生活習慣病を気にして暮らさなければいけない。この事態を悪くいえば「監禁」、良くいえば「包摂」と呼べそうです。
現代の私たちは、閉鎖病棟に拘束されて自由を奪われるわけではないけど、開放された社会において、昔の病人よりもきめ細かな健康管理を強いられる。いわば病院はその外側に似てきたし、退院後の生活は病院に似てきた。病院とその外部の境界線がなくなったといえそうです。
監禁所とその外側の区別がつかなくなってきたという現象は、なにも病院に限った話ではありませんね。昨今では生涯教育とか、就職後に大学院で経営学を学びなおして再び働くとか、多様なライフプランが認められるようになりましたが、学校という監禁所と、その外部との境界線が容易に乗り越えられるようになりましたよね(むしろ日本では、仕事と教育の往き来の活発化は、新卒一括採用という雇用慣行を問題視する文脈において、今後の目標として言及されることが多いかもしれません)。
そうなってくると、「生涯教育」という言葉が示すように、教育には終わりがありません。管理社会では「終了」という概念が存在しないのですね。教育も死ぬまで続くし、「生涯現役」とか言って死ぬまで働かなきゃいけないし、ものすごく悲観的に言えば、死ぬまで職場という監獄から逃れられない(広い意味での「監獄」ですけどね)。
日本で退職年齢が引き上げられ、年金をもらえる年齢が引き上げられるようになった本当の理由は、決して少子高齢化ではなく、管理社会化にある、そう私は睨んでいます。正確にいえば、管理社会化が進んだので、少子高齢化や福祉の浸透が同時に進んだのですね。その限りで、「あらゆる社会福祉に抵抗せよ」とフーコーがうっかり口を滑らせたのは、本質をついていると言えそうです。管理社会化が進んだ結果として、社会福祉の浸透があるのかな、と。要するに、事態の本質は管理社会化にあって、社会福祉化はその表面的な表れに過ぎないのですね。
監獄とその外部が共存するようになった現代の環境は、為替相場に似ています。「懲役刑か釈放か。ゼロか1か」ではなく、監獄とその外部の比率を、現代人は重要視するようになったのですね。身近なところで「働き方改革」に即していえば、「仕事とプライベートの比率を調節して、どちらも充実させよう。仕事だけじゃダメだよね」と考える人が増えるようになった。円高が進みすぎると円安に是正されるように、仕事が忙しすぎると少し休んで家庭を充実させよう、という考え方が強くなったのですね。私たちは学校・職場・家族という3つの監獄から逃れられないが、人生に占める3つの監獄の比率に関しては自由にカスタマイズできる。あるいは病院でいえば「入院か、退院か」ではなく、その中間に「老健」的なリハビリ施設があり、さらに無限のグラデーションがあって、100%の入院というものはありえないし、100%の退院というものもありえない、そのような時代に私たちは生きていると言えそうです。
あるいは、現代の私たちは多かれ少なかれ経営者や投資家的な発想をするようになったと言えます。副業とはスケジュール調整していくつかの仕事の割合を調節することだし、「セミリタイアしつつ時々バイト」とは、無職とサラリーマンとの割合を心地よい水準にキープすることですからね。あるいは現代の私たちが労働しながら投資できるようになったってことは、労働者兼投資家になりつつあると言える。先程の在宅介護の例でいえば、介護サービスの利用者とスタッフの境界線が確固として存在するのではなく、利用者側とスタッフ側が話し合ってケアプランを作成するので、介護スタッフは労働者としての権利と利用者の満足が両立しそうな丁度いい水準を探るし、逆に利用者の意識にも介護スタッフの考えが多少は入ってくる。ここで労働者と利用者の比率が問題となってくるのですね。「介護スタッフの負担が大きすぎるので是正されるべき」という問題意識は、「ドル円相場が円安なので是正されるべき」っていうのとまったく同じ発想です。そして介護スタッフと利用者の合成人間が(フーコー風に言えば、いわゆる「統治者」ですね)、「病院と介護施設と家族という三角形のどの辺りにその人間を位置づければいいか」という調節作業を行う。もう、私にはドル円ユーロ相場にしか見えないです。誰もかれも、比率の話しかしてないんですよね。このように現代では、相場師的な考え方が主流となっています。純度100%の労働者がこの世から消え去りつつあるなか、「ウォール街を占拠せよ」といった左翼デモは、労働者の断末魔の叫びなのかもしれない(笑)
で、管理社会化の何が問題なのでしょうか。一つだけ強いて挙げるとすれば、「果てしない引き延ばし」を強いられる点です。私たちは比率の調整に没頭しており、この調整作業は私自身の死後も続くし、人類の死後も続く…と何となく思っているけど、実際に調整作業が果てしなく続くのかどうかはともかく、少なくとも「この作業が終了するかもしれない」という可能性について思考する能力を人間から奪う点が、管理社会の問題点だと言えそうですね。逆にいえば、「死、あるいは絶滅について考える必要なくね?」という立場に立つなら、べつに管理社会化に大したデメリットはないのかもしれません。
「じゃあ、昔の人が死について真面目に考えていたのか?」と問われると、たぶん考えていなかったでしょうね(笑) 昔の人にとって死は身近にあったかもしれないが、身近にあると返ってその重要性を意識しづらくなるものです。いや、たしかに昔の人は死を恐れていたのかもしれないが、「昔の人は身近な死を恐れていた。一方、現代人は死を社会の一変数と見なし調節する」と古今を対比させ、それぞれのメリット・デメリットを数え上げて比率を調整する作業はいかにも管理社会に生きる現代人の発想であり、私もそこから逃れられる気がしません。しかし他にどう考えろっちゅうねん…。
その意味で、近代と近代以降の境界線というのは、一つのターニングポイントだったのでしょう。近代以降の目から振り返ってみると、近代において人類は分割不能な個人(individual)の確立を目指しましたが、志半ばにしてあきらめざるを得ませんでした。個人と社会の間に確固とした境界線を設けることなど、所詮人類には無理だったのですよね。その代わりに進行したのは、やはり個人と社会の比率を調整するという作業であることは言うまでもありません。
死と生の境界線についても同様です。死そのものについて考えることなど、所詮私たちには不可能でした。死は生の一部に繰り込まれ、歪曲された形でしか思考されません。「資産は一代にして成らず」という言葉が示すように、個人の死は相続税対策や最適なポートフォリオ構築の変数としてのみ考慮され、あるいは社会における死は統計上の一変数として、コントロール対象としてのみ話題に上る。そうして、いずれ自分たちが絶滅していることにも気づかず、持続可能な社会を実現するための資料とにらめっこしているのでしょうね、どうせ。
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