海外ロックフェス参戦記8
レスター
翌朝は朝食もそこそこに、レスターに出かけた。午後にはMotorheadとMaidenに備えドニントンに戻らなくてはならず、余裕はない。ドニントンから列車で30分程度の距離だが、時間を買うつもりで、マイヤにタクシーを手配してもらった。住所から調べると目的地は駅から離れていて、マイヤも直接向かうのが良いと言う。
朝食に来たイスラエルのファンが声をかけてきて、昨夜のSlipknotの興奮がまだ続いていると上気している。
「今日は昼にUFOがサブステージに出るけど、行くよね?」
Maidenのスティーヴ ハリスが憧れ、マイケル シェンカーも在籍したUFOも今日出演することは分かっているが、その時間には戻れそうにない。
苦渋の選択だ。
今日の予定を打ち明けると、
「そのために日本から来たんだね。今日がいい日になるように願ってる」と真剣なまなざしで応えてくれた。
メロイックサインを交わし、私はタクシーに乗り込んだ。
車はハイウェイに入り、速度を上げていく。Highway Starの鍵盤ソロ直前のフレーズさながらの加速に、思わず笑みがこぼれる。これから向かう先は、Deep PurpleのJon Lord御大ゆかりの場所なのだから!
始めてDeep Purpleを聞いたのは中学の頃だが、私はJon Lord御大とそれ以前、6歳からの“顔見知り”だ。買い物に出かけた母が、ショッピングセンターの福引でエコバックを貰ってきて、学校の図画工作で4ツ切りの大きな画用紙に描いた絵や、ボール紙を折った作品を持て余さず済むよう、子供部屋のフックにかけてくれた。
「ほら、この“ロックのひと”のバッグに入れたら」
エコバッグはDeep Purple MKⅡのメンバーとLed Zeppelinのライヴ写真が表裏になっていて、私は子供ながらに汗だくでブレた感じのZeppelinより、Purpleの5人の写真の方が好きで壁のフックにはそちらを表にかけていた。(もちろん当時はそれが、どこの誰だか、まったくもって知らなかったが)Purple の5人のうち、カメラ目線で写っている“ひげのガイジンさん”とはいつも目が合い、「やっぱりここは英語でね」と小学一年生の私は、“Hello”とか”Good Night”とか、覚え立ての英語で朝晩挨拶していた。やさしそうで見守ってもらっている…。
それがJon御大だったのだ。
イングランドのイーストミッドランドに位置するレスターは、対岸のフランス、フランドル地方の影響を受け、毛織物の産業で栄えた街だという。御大の父上もその産業で働き、同時にアマチュアミュージシャンとしてサックスを吹いていたそうだ。イギリスでは映画「ブラス!」で描かれたように、労働者が余暇に管楽器を楽しむ伝統がある。
仕事から大急ぎで帰り、ジャズバンドの練習に出かけた、父上の思い出を語った御大のインタビューによれば、家の中ではジャズをはじめとする音楽が溢れ、そのような環境で9歳からピアノのレッスンを受けるようになったという。
車は街の中心部を避け郊外の幹線道路を進み、次第に細かい住宅地に入り一軒家の前で止まった。
見かけは二階建ての一軒家、中心で二軒の家に分かれている、いわゆるセミ デタッチド ハウスで、左側の建物が…。
この家、此処こそが、Jon御大の生まれ育った家だ。
大学時代、ホームステイした記憶を頼りに、セミ デタッチド ハウスの間取りを思い起こす。玄関横、前庭に面し出窓がある部屋はおそらくリビングルーム、奥に庭があるはずで、メインベッドルームは庭に面しているだろう。この出窓の部屋、リビングに置かれたピアノを練習し、その真上の二階が子供部屋だろうか。
鍵盤のマエストロが初めて音楽に魅了され、自身の指で奏でることを始め、音楽で身を立てることを決意した、すべての起点がこの場所にある…。
頬を涙が伝う。
涙腺が崩壊したようで、止まらない。
この前年、2012年の7月、すい臓がんのため*71歳でこの世を去ってしまったJon御大。(*直接の死因は、すい臓がんにより誘発された肺塞栓症)
先行きが見えない自分の状況を踏まえ、ゆかりの地への“pilgrim”で偲ぶ。
まずは、この地に立てた。
私は、万感の想いで、聖地を見つめ続けた。
のっそりと猫が歩いてきた。いぶかしげに私を見ると、玄関のドアの前に座り込んだ。まるで門番のようだ。
「怪しいものじゃないのよ」と猫に語り掛けたところで、我に返った。見知らぬ東洋人が、涙を流し鼻をすすりながら家の前に立ちつくしている、
猫ですら怪しむ風体だったのだろう。ここは個人のお宅だ。
私はJon御大を育んだ聖地を後にした。
もう一か所、行くべき場所があった。
大通りへ戻り、次を目指した。
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