モスクワのトランジット6時間でクレムリンを見たい~サントリーニとドブロブニクへ新婚旅行日記7(終)~
※5年前の新婚旅行日記最終回です
14. 豪胆さに助けられる
朝はヤドランカに空港まで送ってもらい、一路モスクワへ急ぐ。
モスクワ乗換でおよそ6時間のトランジットを使い、せめてクレムリンと赤の広場だけでも見られたら素敵だなと思ったのである。
モスクワに降り立つことなんて今後いつあるかわからないし、空港から少しでも出てロシアを見てみたい。それだけのためにビザをとった。
兄がロシアに半年ほど住んだことがあったので、出発前にいろいろ聞いてみていた。
「空港からタクシーでクレムリンまでいくら?」
「通常は3,000円ぐらいだと思うが、おまえはロシア語が出来ないし、バカだから一万円はかかる」
参考にならない。
しかし色々調べて往復で一万円もあれば大丈夫だろうと思い、日本でルーブルに両替しておいた。
ビザは赤坂にあるロシア大使館で妻と二人分取った。最初自分の分だけ取ってしまい、二度手間に。大使館からダウンロードする書類もいまいち書きづらい。「ロシアに行ったことがあるか?」「旧ソビエトのどこかに行ったことがあるか?」など細かい質問が続く。
申請書類を出しながら本当にこれであっているのだろうか、間違っていたら入国できないのでは、と不安になる。ビザを実際に手にしても不安だった。
モスクワのシェレメチェボ空港で、入国できないのでは、という不安は現実になってしまうのである。
ドブロブニクからシェレメチェボ空港に着き、パスポートコントロールの列に進み、トランジットのロビーにそのまま出てしまったのだ。出たかったのはトランジットではなく、外への出口。
周りの誰に聞いても、出口はわからない。壁に貼ってある地図を見て、インフォメーションと書かれた場所に行ってもカウンターに係員は不在。
焦った。
残り五時間あるというのに、残り五分ぐらいの気持ちだった。
早歩きであっちに行ったりこっちに行ったり。
英語が話せたって、伝わらなかったら何にもならないじゃないか。
悔しくて悔しくて泣きそうなほどになったときぼそっと妻が言った。
「さっきのところに戻ってみる?」
「あの怖い顔にまた会うのか。でも、ううんと、ええっと、そうか。それしかないか。そうしよう。」
パスポートコントロールを戻るなど、まったく頭になかった。
名案だと思う前に、先ほどの男の顔が浮かんだ。パスポートをちらりとめくり、こちらをねめつけるように見た男。あの男に、また会わなくてはいけない。
観念して会いに行くと幸か不幸か同じ男がいた。飛行機の合間の時間だったのかパスポートコントロールはガラガラである。怪訝な表情を浮かべる時間すら与えない勢いで俺はパスポートのビザのページを開いて早口でまくしたてた。
俺たちはトランジットじゃない、入国したいんだ。出口を間違えた。
「これは五時間後のフライトじゃないか」
残り時間短いのにいま出国してどうするというんだ、という言葉が裏にはあった。
「でも、俺たちはロシアを見たいんだ。少しの時間でも」
すると男はどこかに電話をかけてパスポートをこちらに返し、右手を外側に二回ふり、野良猫や虫を追い払うようなシッシッというような仕草をした。
今思うと、腹が立つ振る舞いだが、気が変わらないうちにスパシーバと言って中に入った。
正しいゲートを無事通り、暗い廊下を突き進むと出口が見えた。
ロシアだっ。
さて、これからも難関であるが、クレムリンまでバスで行こうと企てていたのである。
事前に入手したモスクワのパンフレットとネットの知識によると、どうも851番のバスで鉄道のレチノイ・ヴォグザール駅まで行けて、そこから地下鉄でクレムリンへ一本だ。
で、バス停どこやねん。
関東育ちの俺が思わず関西弁になってしまうほど、何にも表示がなかった。バスの絵すら見当たらない。
仕方なくドア付近の警備員風の男に聞いてみる。185cmくらいある、クイーンのフレディのような角刈りヒゲの細長い男である。
「ノー。ミスター、ノーイングリッシュ」
なるほど、失礼した。
自分のリュックをあさり、モスクワの旅行パンフレットを取り出す。実家にあったもので、何かしら役に立つかもと持ってきていた。パンフレットの後ろの方には指差し会話帳がついており、なんと「バス停は何処ですか」とキリル文字で書いてある。これと数字を見せて万事解決。
ロシアのフレディは「オーケイオーケイ」と大きくうなずいて大股でのっしのっし歩き始めてしまった。とりあえずついていく。
フレディは建物の外に行き1分ほど歩き続け、最後に両手でバス停をがしっとつかんで「ここだあ」とやってくれた。ハラショー、スパシーバ。自分が知っているロシア語を全部使ってお礼を言う。
15. 同じ過ち
バスの運転手に二人だ、と言って適当にルーブルを出すと、100ルーブル札を取り、90の数字と時計の絵がついた緑のカードを二枚くれた。見たところ、バスと電車の絵がついている。
これはまさか、電車もバスもこの一枚で90分間乗り放題なのでは。なんと素晴らしい。地下鉄でも使えた。文字は全く読めないが、パンフレットのカタカナのおかげでアナウンスがなんとなくわかる。なんとなく荷物に突っ込んだパンフレットがこんな命綱になるとは全く思わなかった。
乗換駅では、駅構内の床に電車の色と矢印が書いてあるから大変わかりやすい。やさしい。
心に余裕が出てくると、余計な考えが出てくるもので。
クレムリンの目の前の駅ではロシアを感じられないから、一駅前で降りるとしよう。
アテネでの私の行動を読んだ方はもうわかりますね。
降りたのはクレムリン最寄りの二駅前でしたね。
全く何にも進歩がない。出たところがもう普通のビジネス街。そりゃそうだ。
しかしながらなんとか通りの名前を頼りにふらふらとクレムリンに近づく。曲がり角曲がり角で通りの名前を確認し、じりじり進む。
時間が限られているのでこっちは必死である。しかも寒い。今までTシャツ一枚で何処へでも行けたのに、この旅初めてカーディガンを羽織る。
あるとき地図を見ているとおじいさんが覗き込んできた。地図上のクレムリンを指さすと、おじいさんは向こうだと指をさしてくれる。
ああ、これでいいんだなあ。これだよなあ。日本で外国人観光客をおもてなしするのって、この心さえあればいいんだな。
ほどなくしてレストランやカフェが立ち並ぶメイン通りに出た。日本食レストランもある。そしてはるか向こうに金色の屋根のあいつ。
「あれだーーーーーー」
出国、バス停、地下鉄、降車駅間違いなど色々あって俺の感激はひとしお。
たくさんの観光客と共に赤の広場に入る。
アジア人、とりわけ中国人や日本人のような人が全然居ない。なかなか不思議な空間である。
隅から隅まで歩く時間がなく、地下鉄で戻ってレチノイ・ヴォグザール駅へ。
バスが来なくて不安にかられてタクシーを捕まえる。運転手に航空券を見せてここに行きたいと示すと、
日本の一昔前の折りたたみ携帯、ドコモで言うと昔懐かしP209isぐらいのものをだして「1,200」と提示された。高いんだろうけどルーブル持ってても仕方がないし、乗ることに。
五車線の道路で七台走ってたし、運転中電話しまくってたし、急発進急停車で酔ったけど間にあったからどうでもよい。
帰りのアエロフロートでは、疲れていて爆睡で、設備のぼろさは気にならなかった。
ただ乾燥がひどく、まっ暗闇で喉が渇いて客室乗務員を呼んだ時、「キャナイ ハブ ア カップオブ」ぐらいのところで水を出された時は感激した。ドヤ顔だった。
成田に着いた時、ワールドカップの日本対ギリシャがテレビで放送されていた。みんながかじりついて見る中、バスで東京駅へ向かう。
日曜の夜の便だと、次の日の仕事が心配だから昼に家に帰ろう、と思って日曜朝成田着の便にしたのに、結局帰ってから二人でそそくさと布団しいて寝てしまった。
16. お土産たち
サントリーニのトマトソース二瓶。俺のTシャツにくるんで持って帰ってきた。しかし妻はこれをパスタにドバドバ使い、感激のうまさは1,2回であった。重かったのに。
父にはワインのコルクを。
「俺お土産で、雪が降るはずのないギリシャのスノードーム買ってくるから。置物で、ガラスになっててひっくり返すと雪降るやつ。パルテノン神殿に雪降らせてやるよ」
出発前にこんなことを言っていた。冗談のつもりだったが、ちゃんとあった。見事ワインのコルクにパルテノンさんがくっついて、ご丁寧に雪も降らせてくれるのであった。
兄にはペルシャじゅうたん模様のマウスパッド。ドバイの空港で買っていた。ドバイの貨幣価値が全然わからなくて買ったのだけど3,000円もしていてびっくりした。
母にはテーブルクロス。オリーブ模様の可愛いテーブルクロスがあった。思ったよりも大変喜んでくれ、嬉しかった。
他にも職場や友人にたくさんのお土産を買っていったが、自分達へのお土産として印象深いのがひとつ。
サントリーニの白と青の建物の置物と、ドブロブニク旧市街のミニチュアの置物である。お互いが、お互いの行きたいところにそれぞれ行ったという象徴で。
なんだかこの先もきっと、我々夫婦はこんな感じなんだろうなあと思う。
その年の11月に結婚式を挙げるのだが、リングピローとして使った。サントリーニの置物には妻の指輪を、ドブロブニクの旧市街には俺の指輪を置いて。
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